最近、全国の温浴施設で入れ墨を理由とした入浴制限を緩和する動きが出ていると言う。
遅きに失した感はあるが結構な事である
とは言え、もともと反社会的な人たちを温浴施設から排除する目的で始まった「入れ墨規制」の緩和理由が、外国人旅行者の増加や東京オリンピックを意識した為だと言うのは如何なものだろうか?
そもそも、「入れ墨=ヤクザ=暴力・危険」という単純な図式自体が「愛知県の交通事故死者数が12年連続で全国最悪となったから、愛知県ナンバーの車は高速道路乗り入れを規制する」に似た間違った図式で、この図式で「入れ墨お断わり」と言う差別的規制を実施した事が間違いの元であった。
然し、理屈っぽい論議を嫌い、因習や風評に流され易い点では韓国に似ている日本では、温浴施設の「入れ墨お断わり」を差別だと主張しようものならネットで袋叩きに合うのが落ちである。
現に、茂木 健一郎氏が「タトゥーで温泉を拒否は差別」と発信した途端にツイートで嵐のような攻撃を受け、驚いた同氏が「タトゥー、刺青に対する差別はいけない、というのは当然だと思っていたが、一部の人が、反論罵倒してくるのでびっくり。大いに議論したらいいと思う」とつぶやいたくらいだった。
実は筆者も茂木氏と同じような経験をした事がある。
茂木氏より2年前の2012年03月のアゴラに「それはないよ橋下さん!『入れ墨は首、それが駄目なら消させよ』発言」と言うタイトルで、入れ墨の賛否ではなく「橋下市長の言動が公権力者として守るべき最低線を超えている」として、以下のような主旨の批判記事を書いた。
(1)「入れ墨職員は首、それが駄目なら入れ墨を消させろ」
「入れ墨禁止」の規則無しに採用された公務員を、市長が変ったからと言って馘首する事は「不遡及の原則」に反するだけでなく、公権力乱用に当たる。又「入れ墨を消させろ」発言もパワハラだけでなく、憲法にも違反する。
(2)「採用後の入れ墨はおかしい。あなた方の価値観は狂っている。僕が市民に代わって、不適格の職員はどんど。ん分限免職にする」
この発言も同罪であり、職員の価値観が市長と違うからと言って,分限免職などと発言すること自体、民主国家の基本中の基本を無視した反社会的発言である。
(3) 「公務員に入れ墨を許す国がどこにある」
欧米では「入れ墨」をした警官や消防夫、軍人など何も珍しい事ではなく、シュルツ米国元国務長官もその臀部に母校のプリンストン大学のマスコットである「虎」の入れ墨をしていた事は有名。
(4)大阪市が全市職員に実施した入れ墨の有無を尋ねる記名式アンケート問題。
これも市長の越権行為で、橋下市長はこれ等の言動は訂正して欲しい。
この記事はたちまち激しい感情的反発を招き、
「このような発言をする人間の『常識』を疑う。ここは日本。橋下市長の言う事は、当たり前」
「法律は関係ない。法律では無くて常識のレベル」
「こんな立派そうな大人でもこんなばかなこと言うんだ。こんなことを理解できない大人が居るってことが悲しい」
「入れ墨がどうしたとかっていうより、『表現の自由』とか『非合法ではない』って理屈持ち出すのは狂気としか思えない」
「それって常識じゃないの?常識な事を憲法や法律になってないからってダダをこねるって小学生じゃないんですから」
等々の罵詈雑言や引用さえ避けたくなる激しい言葉も数多く浴びせられた。
人間社会から感情や偏見(愛情がポジテイブな偏見なら、嫉妬や憎悪はネガテイブな偏見)を追放して、理屈ばかりの世界になったら、息苦しくて生きて行けない事は確かである。
だからと言って世界化が進む今の社会で、最低の決まり事を明文化した法律より、限られた仲間内相互の曖昧な了解の上に成り立つ不文律や時と場所により異なる常識を重視する社会になると、多くの誤解や遺恨を産む事になりかねない。
その上、常識は事なかれ主義や閉鎖的な傾向に陥る特徴もある。
「入れ墨がどうしたとかっていうより、『表現の自由』とか『非合法ではない』って理屈持ち出すのは狂気としか思えない」とか、「それって常識じゃないの? 常識な事を憲法や法律になってないからってダダをこねるって小学生じゃないんですから」等と自分の感情を自由に表現して相手を罵倒出来るのも「民主憲法」の保護の賜物であり、国内の常識や不文律を法律より優先させる世の中では、お隣の韓国の様に有力者の嫌がる批判が厳しく制限されるのが当たり前の社会になりかねない事も忘れないで欲しい。
個人的には入れ墨は嫌いだが、温浴施設の「入れ墨お断り」は差別であり違法だと思う筆者としては、好きか嫌いかの感情論ではなく、入れ墨を拒否する法的根拠と根拠法の良し悪しに重点を置いた論議は出来ないものだろうか? と願っている。
2015年8月23日
北村 隆司