言葉遊びの好きな毛沢東

毛沢東は大変な読書家で文才にもすぐれていた。彼の最も有名な詞は「沁園春、雪」である。

江山は此くの如く多嬌なれば無数の英雄を引きいて競ひて腰を折らしむ
惜むらくは秦皇漢武は略ぼ文采で輸り唐宗宋祖は稍や風騒で遜る
一代の天驕成吉思汗は只だ弓を彎き大雕を射るを識るのみ
倶に往きにけり 風流人物を數へんには還ほ今朝を看よ

この詞を作ったのは、1949年政権を握る遥か前だが自分は秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、宋の太祖、ジンギスカンよりも優れていると言外に語っている。もっとも毛の治世の実績を見ると、こうした中国歴代英雄の誰にも及ばないことは明白だ。毛沢東は「アメリカ帝国主義は張り子の虎」と言い「東風(社会主義諸国)が西風(資本主義諸国)を圧す」と言ったが、どちらも外れた。毛沢東は、創業と守成は全く別の才能が求められることを鮮やかに教えてくれた。

文才豊かな毛沢東は言葉遊びも大好きだった。
エドガー・スノーは何度か共産中国を賓客として訪れている。以下は1970年訪中時の話。Eスノーの毛沢東会見記の版権を買った朝日新聞(1971年4月27日版)から引用。
「自分(毛沢東)は複雑な人間ではなく、実はとても単純な人間なのだと語った。いわばヤブレ傘を片手に歩む孤独な修道僧にすぎない」。これを読んで「あれほどの権力者でありながらなんと謙虚なことよ」と感心した人も多かった。

だが毛沢東の真意は謙遜どころではない。この中「ヤブレ傘を片手に歩む孤独な修道僧」の中国語原文は「和尚打傘」。
「和尚打傘」とは「和尚」には髪がない(無髪は無法と音が同じ)、「打傘」は傘をさすので「無天」。つまり自分は「法も道理も無視して好き放題した」という意味。遺憾ながらこの唐聞生という通訳はアメリカ生まれでこの中国語の言葉遊びが分からなかった。もちろんE・スノーにも通じない。 以上高島俊男「孔子さまのひっ越し(「漢字語源の筋ちがい」に収録)」から。

もう一つ毛沢東の言葉遊びの例をあげておく。
1972年9月末田中首相と大平外相が日中国交回復のため北京を訪問した時のこと。
田中首相は歓迎晩餐会で中国で最もアルコール度の強い茅台酒をしたたか飲まされた。その後毛沢東と会見した時、田中が「茅台酒のアルコール度数はいくらですか?」と尋ねた。毛沢東の答え「79度です」。「茅」と「毛」は発音が同じでどちらもmao。毛沢東は冗談で自分の年齢を言ったのだ。ところが生真面目な日本人通訳(姓名不詳)は新中国建国の英雄がそんな言葉遊びをするとは思いもよらなかったのだろう。そのまま訳したのでせっかくの毛沢東の言葉遊びは田中にも大平にも通じなかった。これも単なる語学屋ではいい通訳になれない好例だ。

さっき名前を出したエドガー・スノーのこと
中国共産党がまだ延安に逼塞していた頃、Eスノーは世界で初めてジャーナリストとして共産党支配地区に潜入し毛沢東に会った。彼はその時の取材を基に「中国の赤い星」というルポルタージュを書いた。毛沢東が自分の生い立ちを語ったことは後にも先にもないのでこの本は毛沢東伝を書く時の根本史料となった。まだ世界から中国共産党など山賊か流賊の類であると思われていた時期に、毛沢東が第一級のインテリであり愛国者であり優れた戦略家戦術家であるとして紹介した。特に「毛沢東はリンカーンのような人」の句はアメリカ人を強く引きつけたに違いない。晩年ブヨブヨに太った毛沢東からは想像もできないが延安時代は痩せて精悍であったのだ。毛沢東の生涯を概観すると「駿馬も老いては駑馬に劣る」の格言を思い出す。

毛沢東が全中国の覇権を握るのはそれから十年以上後のことだから先物買いとしては稀に見る成功例と言えるだろう。 戦後日本語訳も出版され新中国信者、毛沢東信者を増やすのに大いに貢献した。

青木亮 
英語中国語翻訳者