左翼の将来像

「左翼(左翼的な政策)」とは何かという定義は難しい。

以前にも書いたように、元々「左翼」勢力とは、暴力革命によるか議会民主主義の手順に従うかは別として、資本主義経済体制を打倒して、国家計画経済体制を樹立させる事を目的とした勢力であった。

(その後は、国家が独占禁止法その他の法規によって資本の暴走を抑える「修正資本主義政策」や、労働組合の活動によって富の分配の均等化を図る動きも、左翼勢力の重要な活動目標となりはしたが、基本は変わらなかった。)

しかし、「軍備を持たない」とか「原発は廃棄する」とかいう政策は、何れの場合でも本来の「左翼思想」とは何の関係もない。いわゆる「リベラル」や「環境保護」も同じである。

かつてのソ連や現在の中国・北朝鮮は、どんな国よりも熱心に軍備増強を推し進めたし、原発はおろか核戦力の増強にも精力を傾けている。生産力の増強を環境保全よりも上位に置く姿勢も、これらの国では明確だ。現在の中国を「リベラル」と考える人は先ずいないし、そもそも国家計画経済というもの自体が「リベラル」な考え方とは相容れないものだ。

しかし、最近かなり多くの人たちがデモなどで気勢を上げているのは、「反安保」「反原発」などのテーマについてであり、一方、ここに集まった人たちの多くは、昔から左翼活動をしていた人たちのように見受けられることから、「左翼」と「反安保」「反原発」は何となく一括りにされているようだ。

そして、この人たちに一様に共通するのは、政府の方針を批判することにかけては舌鋒鋭いが、「中国の覇権主義や軍拡の脅威」とか「国民経済を支えるエネルギー政策」とかいった「自分たちに都合の悪い話題」には沈黙するという、万年野党の日本共産党同様の「かなり無責任な対応」である。

従って、「左翼」の定義についての結論を急ぐなら、日本の場合は「日本共産党」を一応「典型的な左翼政党」と位置づけ、この党の政策に近いものは「左翼的な政策」と定義するのが、乱暴ではあるが、結局のところ一番分かり易いような気がする。

日本共産党自身は、良し悪しは別として、職業的な能力が身についた人たちによって支えられ、長期間にわたって一定数の支持者をキープして、「堂々たる少数政党」としての地位を保っている。しかし、その周辺にいる人たちは、その「拠って立つところ」が今なお定かでない。

かつては「歴史的必然として、やがては政権を取るだろう」と思われていた社会党は、自民党と連立した村山政権で文字通り政権を取ったが、これでアイデンティティーを失い、後は凋落の一途をたどった。世界各国における社会主義的な経済政策の失敗もこの流れを加速させた。かくして、現在ではこの勢力の名残は、「泡沫政党と化した社民党」と「労働組合を支持母体とした民主党の一部の議員」に残っているに過ぎない。

かつては、共産党より右寄りに鈴木茂三郎の率いる左派社会党(総評系)、更に右寄りに浅沼稲次郎の率いる右派社会党(同盟系)があり、岸首相時代の反安保闘争に際しては、これらを総合した左翼勢力の動員力は相当規模に達していた。結果としては、これらを無視して安保条約の延長を強行した岸首相の決断は、その後の日本の為に明らかに良い結果を招いたとは思うが、これは文字通りぎりぎりの決断だったのだ。

しかし、反安保闘争が挫折した後には、「選挙による革命を標榜する共産党は生ぬるい」として、公然とゲバルト(暴力)を呼号する「中核」とか「革マル」とかの過激組織が大学生を中心に組織され、多くの人たちはその無法ぶりに眉をひそめた。こういう過激組織は今なおごく少人数の規模で存在しているようだが、ここで挫折した人たちの多くは60歳台となり、現在の反原発や反安保法制のデモに参加して、ノスタルジーに浸っているかのようでもある。

(ちなみに、これらの過激組織の主敵は共産党の下部組織である「民青」であり、「ゲバ棒」と呼ばれる鉄パイプで彼等の集会に殴り込みをかけたので、民青側もこれに対抗する為に「民主化棒」という木製の棒で武装した。このような事から、「これらの過激派組織の背後には、『羊の皮を被った狼である共産党』の勢力拡大を何よりも恐れる田中清玄のような右翼の大立者がいて、活動資金を供与してのではないか」という噂も囁かれたが、真偽のほどは分からない。)

日本共産党の生い立ちは昭和初期に遡るが、近年(具体的には中国における文化大革命の時期)に至るまでは、モスクワのコミンテルの完全な指揮統制下にあった。この辺の事情は風間丈吉の「モスコウとつながる日本共産党の歴史」等をご参照願いたいが、私が注目したいのは、日本で若くして共産主義活動に身を投じた人たちの殆どは、純真な心を持った理想主義者で、身を呈してその理想の実現の為に働こうとしていたという事だ。これらの人々の多くが粛清相次ぐモスクワの権力抗争の犠牲となって、非業の死を遂げたり、悲惨なラーゲリ生活を強いられたりした事には、身を切られるような同情を禁じ得ない。

しかし、このような悲惨な若き共産党員の物語こそが、20世紀の世界を大きく彩った「共産主義の興隆と没落の歴史」の本質を象徴的に語っていると言えないでもない。その歴史は、大略下記のように要約できる。

元々「共産主義」は下記を主張したのだから、多くの若者達が「これこそがあるべき社会の姿だ」と考え、強く魅了されたのは当然だったと言える。また、議員選挙を通してであれ、暴力的な方法によってであれ、圧倒的に多数の農民や労働者(及びその中から徴発された兵士)が、一握りの特権階級を圧倒するのは時間の問題だろうから、革命は遠からず必ず実現する(歴史的必然だ)と考えたのも理解できる。

  1. 生産手段を作り出す資本を国家が一元的に管理し、計画的に活用するのだから、景気の変動もなく、最も効率的な生産活動ができる。
  2. 国家の運営は労働者階級が独裁的に行うので、「労働するものが報われる」格差のない公平な社会が作れる。
  3. 戦争は、産業資本家によって支えられた帝国主義国家が世界中に市場を拡大しようとして引き起こすものであるから、世界各国で労働者階級が政権を握れば、戦争は根絶できる。

しかし、実際に起こった事は下記であり、それ故、世界中で共産主義政権は次々に崩壊するか、中国のように大幅に資本主義経済を取り入れた「折衷型の共産主義?」へと転換せざるを得なかった。

  1. 共産主義思想は、「人間は、管理されている状況下では、働いたり工夫したりする意欲を持てず、従って生産性は極度に低下する」という事を理解できていなかった。その為、希望に燃えて出発したソ連でも、成功したのは第一次五カ年計画だけで、その後の経済は著しく停滞、国民の生活水準は資本主義体制下にある欧米諸国と比べ極めて低い水準に据え置かれた。
  2. 政治を行おうとすれば、誰か(個人、又は少人数のグループ)が権力を握らなければならない。そうすると、誰が権力を握るかについて抗争が起こり、結局は「暴力で他を制したもの」がその権力を握ることになる。そして、最終的に権力を握ったものは、殆どの場合必ず腐敗し、資本主義国以上の格差社会が生みだす結果となる。
  3. 権力を握ったものは、外部からの力でそれを失うことを恐れて軍備を強化し、その次には、その軍事力を周辺国の支配の為に使うようになる。こうして、主要な共産主義国は、かつての資本主義国以上の好戦的な国家となる(ナチスドイツと手を組んでポーランドに武力侵攻したスターリン統治下のソ連は、まさにその典型だった)。

かくして、一時は全世界を席巻した「共産主義の夢」は、現在ではほぼ掻き消えてしまっている。これからの中国がどういう軌跡を描いて変貌していくかはまだよくわからないが、経済が発展して人々の生活水準が上がれば、彼等がより多くの自由を求めて「独裁制」に抵抗していくのは、それこそ「歴史的必然」であるように思える。ネット社会の広がりがこれを加速させる事も、先ず間違いないだろう。

さて、それでは、日本の「左翼」はどうなるのだろうか? 日本共産党は、今後とも一つの「アンカー」のような存在として残るだろうが、彼等が政権党になる事はあり得ず、彼等もそれを望んではいないだろう。「共産主義の夢」がすでに消えて無くなってしまった現時点では、彼等に「自分たちが政権を取ればこういう国にする」という青写真を見せろと迫ってみても意味はない。彼等の役回り(存在意義)は、今後とも「反対者の拠点」といったところで十分だろう。

一時は「チェンジ」というキャッチフレーズが多くの人々の心をとらえたものの、期待された民主党政権は「政権運営能力の不足」を露呈して多くの人々を失望させ、今もなお失望させ続けている。結果として、現時点では、高度成長時代の再来とも思える「自民党の安定支持基盤」が、再び形成されつつあるようにも思える。

これまでの日本のあまりに頻繁な首相交代は、世界における日本の信頼性を弱めていたから、私は基本的には長期政権を望んでいるが、この政権が傲慢で独りよがりにならないようにするには、どうしても強く現実的な野党が必要だと思っている。

それが「新しい形の左翼」と呼ばれようと、「中道左派」と呼ばれようと、或いは、単に「反経済至上主義」の勢力と呼ばれようと、私は構わない。必要なのは、「反対の為の反対」をする野党ではなく、「違った角度から国政のあり方を考える野党」であって欲しいということだ。

今回の一連の「反安保法制」のデモは、それなりにエポック・メイキングであったと私は評価している。(嘘をついてまで動員数を膨らませて宣伝する必要は全くない。参加者は12万人ではなく3万人でも十分意味があるし、逆に12万人であったとしても、かつての反安保デモに比べれば物の数ではないからだ。)この事は、安倍政権が傲慢にならぬように牽制する程度の効果はあっただろう。

しかし、私は今回生まれたシールズのような学生運動は全く評価しない。将来を担う若い人たちが、このような「文化祭のノリ」程度の活動で満足して貰っては困るからだ。

若い人たちには、むしろ「あんなデモ程度では世の中はとても変えられない」事を、苦い思いと共に深く認識して貰い、「歴史的な事実をよく勉強し、理論的且つ現実的に構想する能力と、十分なディベート能力を養う」事を決意して貰いたい。そして、世の中を少しでも良い方向へと変えていく「真の原動力」になってほしい。共産党仕込みの古いタイプの「アジテーション戦術」ではなく、より幅広い支持層を求めての「ネットを駆使しての新しい形の戦術」も考え出してほしい。

繰り返すが、かつての「左翼」は「共産主義の夢」の実現を目指す「闘う集団」だった。しかし、20世紀の大部分を通しての壮大な実験の後に、「共産主義の夢」は死んだ。新しい「左翼」は、今こそ新しいビジョンを示さなければならない。

ビジョンとは「あるべき国の形」である。そして、望ましい国の形が、次の「四つの基本要素」から成り立つべきである事に、異論を挟む人は現在の日本にはいないだろう。そして、この四つの基本要素が相互に矛盾する事も少ないだろう。

1)主権在民(民主的なプロセスの保証)
2)基本的人権(自由の保証)
3)平和と環境の護持(安全な生活の保証)
4)経済発展(高レベルな生活の実現と最低生活の保証)

しかし、これらをどういう形で、どのように実現するかについては、意見が大きく分かれるだろう。そして、この意見の違いを止揚する為の政治的な「闘い」とは、「政策の優劣」を争う「闘い」でなければならず、それに勝つ為の方法は、「暴力」ではなく、「構想力」と「説得力」でなければならない。

遅すぎた感はあるが、ようやく「近代の日本の歴史」が高等教育の教科に組み入れられることが決まった。この教科では、物事には常に複数の異なった側面がある事を丁寧に教え、「その評価は異なった価値観を持つそれぞれの人たちによって違う」事を教えるべきだ。そして、継続的なディベートによって、常にその価値観の適否に肉薄するように指導してほしい。

こうすれば、若い人たちの政治に対する姿勢もより前向きになり、折角手に入れた日本の民主主義が、国を滅ぼす「衆愚政治」に陥っていく事を阻止できるだろう。