山本権兵衛
山本は日露戦争時の海軍大臣。彼には若いころ(16歳頃?)おもしろいエピソードがある。山本は薩摩人として戊辰戦争に官軍として従軍したが、戦後得意の相撲で身を立てようと当時の大横綱陣幕久五郎に弟子入りを申し入れる。しばらく山本と話した陣幕は「お前は相撲取りになるには頭が鋭すぎる。別の道を探しなさい」と諭した。山本はその後創設間もない海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入る。
山本は海軍大臣西郷従道の下で大臣官房主事(今ならさしずめ官房長といった所か。但し官房長より遥かに大きな権限が与えられた)として海軍近代化に辣腕を振るう。明治海軍は山本が作ったようなものだ。山本がいなければ日清日露の戦勝はなかったかもしれない。それまでの陸軍主、海軍従の関係を陸海軍対等にしたのも山本。もっともこれは後年特に昭和に入ると弊害も大きかった。
日露戦争直前窓際族であった舞鶴鎮守府司令長官東郷平八郎を聯合艦隊司令長官に抜擢したのも山本。
陸軍における山県有朋のような存在だが山県が元帥として終身陸軍に影響力を及ぼしたが山本はシーメンス事件に連座したため大将で予備役に編入され以後海軍への影響力を失う。
江藤淳(本名江頭淳夫)と雅子妃殿下の共通の曽祖父に当たる江頭安太郎中将は山本の腹心であった。江藤がこの曽祖父と山本を描いたのが彼の唯一の小説「海は甦る」。
尚「権兵衛」の読み方だが、山本自身は「ごんのひょうえ」と呼ばれるのを好んだらしいが、Gonbeiの署名が残されているので「ごんべい」でいい。
東郷平八郎
東郷平八郎は戦前恐らく最も有名な日本人ではなかったか。その名声はトラファルガー海戦のネルソンに匹敵する。
ただ昭和に入りロンドン軍縮条約をめぐり海軍で条約派(軍縮派、英米との協調を重視)と艦隊派(軍拡派、対英米戦も辞せずとする)の相剋が激しかった時、艦隊派のシンボルとして条約派の粛清に手をそめたのは惜しまれる。艦隊勤務が長く視野狭窄の東郷が元帥として終身海軍の高級人事に影響力を発揮したのは日本にとって不幸であった。
東郷は長く軍令部総長をつとめたもう一人の元帥伏見宮博恭王と共に大東亜戦争敗北責任の一端を負わなければならない。
東郷は日本海海戦のおりネルソンのように戦艦三笠の艦橋で壮絶な戦死を遂げたほうが日本にはよかったかもしれない。
余談だが東郷は貸家を多くもっていたが、家主としての義務である修繕は怠りながら家賃の取り立ては厳しかったので店子の評判はすこぶる悪かった。乃木が陸軍大将伯爵としての報酬をほとんど戦争遺族や貧しい人達のために使ったのと比較したくなる。
以下はフェースブックのアゴラグループに投稿した記事の転載
日露戦争を語る上で「坂の上の雲」は古い。日本海海戦に関する実におもしろい本を紹介したい。半藤一利氏と戸高一成氏の対談「日本海海戦かく勝てり」(PHP文庫2012年刊行)
内容は両氏がそれまでに発表された所論をまとめたものであって、この本オリジナルではないが実におもしろい。日本海海戦と旅順戦に関する通念、俗説をコテンパーにやっつけている。要点の一部を以下箇条書きにする。
一、第二次大戦後しばらく経って「極秘明治37・38年海戦史」が公開され日本海海戦の真実がわかるようになった。尚司馬遼太郎はこの資料に接したことはないので当然「坂の上の雲」には反映されていない。
一、T字戦法はなかった。黄海海戦でT字戦法をとったため旅順艦隊を取り逃がしたことに懲りて、ここではT字戦法ではなく並航戦を取った。但し東郷ターンはあった。
一、日本海海戦で開戦に先立ち連繋機雷を敷設する予定であったが高波のため断念した。秋山真之の軍令部宛電文「本日天気晴朗なれども波高し」はそれを暗示している。
一、伊集院信管は、過敏であったため筒内爆発事故が多かった。目標に接触した瞬間爆発するので、艦船撃沈には不適当であった。
一、連繋機雷作戦は不発に終わり、T字戦法もなかったのだから東郷や秋山真之の神格化はおかしい。東郷の神格化は海軍中将小笠原長生の東郷伝によるところが大きい。
一、バルチック艦隊の進路について、対馬説を強く主張し津軽海峡説を退け大勝利に貢献したのは、第二艦隊第二戦隊司令官の島村速雄と第二艦隊参謀長の藤井較一。この点「坂の上の雲」の記述は間違っている。
一、ロシアの旅順艦隊は、日本軍の砲撃による被害と艦砲の陸戦への転用によって203高地陥落前に実態を喪失していた。ただこの砲撃は盲撃ちであったため日本側はロシア側の損害情況を把握していなかった。本当はあれほどの損害を出してまで203高地攻略にこだわる必要はなかった。日本軍はスクラップ同然の旅順艦隊を攻撃するために203高地で甚大を損害を被ったことになる。
一、「極秘明治37・38年海戦史」が永く公開されなかったのは、「日本海海戦大勝利」のイメージに冷水を浴びせたくなかったためと連繋機雷を秘密にしたかったから。
一、日露戦争中数々の失敗があったことを明らかにしなかったのは、陸海軍共戦後多くのものが論功行賞にあずかり、爵位が与えられたことと辻褄が合わなくなるから。
続く
青木亮
英語中国語翻訳者