安保法制はなぜわかりにくくなったのか

このまま安保法案は成立するだろうが、「法案はよく分からない」という人を置き去りにするわけにはいかない。なぜこの法案は分かりづらいものになったのか、分析してみたい。

一つは憲法問題。「個別的自衛権まではアリ、集団的自衛権はナシ」という反対派の理論も、「今回認める集団的自衛権は極めて限定的で、ここまではアリ。ここから先は改憲が必要」という賛成派の理論も、どちらも「その線引きは立場次第なの?」と思わせるもので、極めて分かりづらくなってしまった。


私も安保法制の必要性は認めるが、改憲派だったはずの憲法学者が軒並み「ここまでは改憲なしでも合憲!」と言い出して驚いた。そもそも自衛隊自体がほとんど違憲なのだから、それを許して自衛はOKにしておきながら、自国を守るために他国を守ったら違憲だというのはおかしい、ということなのだろうが、「これを認めてしまって、この先改憲できるのか?」という疑問は残っている。

朝日新聞は衆院特別委での安保法案可決翌日の社説で「改憲の手続きを踏むことが筋道」と書いたが、まさにその通りである。自衛隊のありかたも含めて、今後の安全保障環境を考える上で改憲議論は避けられまい。

もう一つは「集団的自衛権」の範囲の問題だろう。

安保法制反対派は「アメリカの戦争に巻き込まれる。アメリカについてどこまでも行く気だ」と、政府が事例に出したホルムズ海峡への派遣や、中東、紛争地帯への海外派遣を念頭に置いている。

一方賛成派は「中国や北朝鮮との有事の際、日本を守る(であろう)アメリカを、こちらが守ることが出来ないようでは、同盟は立ち行かない」と周辺事態有事の危険性を挙げて必要性を訴えている。こちらはむしろ日中のつばぜり合いにいかにアメリカを巻き込んで優位に立つか、という話だ。

これでは噛み合うはずがない。反対派は周辺事態有事の危険性にはほとんど触れないし、賛成派は海外派遣のリスクや海外で活動する米軍の問題点には触れない。「戦争法案だ」「平和のために必要だ」と互いに言い合っているのだから、話は永久に交差しない。

なぜこんなことになるのか? 

それは安保法案は実際に二本の柱があるからだ。それは「海外派遣(国際平和維持、グローバルコモンズの防衛)=集団安全保障」の柱と「周辺事態対処=集団的自衛権」の柱である。反対派は集団安全保障の柱を指して反対し、賛成派は集団的自衛権の柱を指して賛成だと言っているのである。

私も「なぜ集団的自衛権が米軍追従なのか……。しかしどうして集団的自衛権でホルムズ海峡の話が出るのか……」ともやもやしていたのだが、元陸上幕僚長の冨澤暉氏の『逆説の軍事論』(バジリコ)を読んで、目から鱗、「それぞれ別々の理念によるものだったのか」と理解した。

政府はこれを「集団的自衛権行使容認」の一本の軸で説明し、押し切る作戦でここまでやってきた。平和の党であるはずの公明党が集団安全保障の提起に反対したからだという。だがあくまで自衛である集団的自衛権と、世界平和につながる集団安全保障という二つのものをひとまとめにして「集団的自衛権」と言ってしまったからこそ、この法案によってやろうとしていることが日米の二国関係を核としてとらえられてしまい、政府や与党関係者が「日米が互いに守り合う」と言えば言うほど、「海外派遣の名の下に、アメリカを守るために前線まで行く気だ!」という誤解を生んでしまっていたのである。

しかし実際には、海外派遣で行なわれる自衛隊の任務は「アメリカ専属の武器運搬係」ではないし、そもそも海外派遣先の現場には自衛隊と米軍だけがいるわけではない。多くの国々がそれぞれの状況に合わせた任務をやっていて、日本もその中の一員として活動に当たる「集団安全保障」の活動である。

二つの柱を一つにしたこと、これがより安保法案の理解を難しくさせてしまったようだ。

国際情勢の変化により、海賊対処やテロ組織対応に対して「何もしない」ことが許される状況ではなくなってきている。先日、米軍とモンゴル軍が中心となって各国が参加し、テロ組織対応などの訓練を行った「カーンクエスト15」には自衛隊も参加したが(しかし法律上、武器を持ち出せなかったため、モンゴル軍に借りたという……)、なんと中国の人民解放軍も参加している(全二十三カ国が参加)。これから中国はますます集団安全保障的な取り組みに参加し始める可能性がある。

日本はかつてカネだけ出して誰からも感謝されないという悪夢のような経験をした。そしてPKO派遣が検討され、安保法制が論じられるずっと以前から、そして現在ただ今も、自衛隊は海外へ行き、道路の建設や医療支援などの活動に参加している。

防衛省のフェイスブックに南スーダン派遣施設隊の活動の写真がアップされているのでご覧いただきたい。恐らくそれは(防衛省の広報写真であるとはいえ)「戦争法案」「米軍とともに泥沼の戦闘へ」というものとは全く違った印象を受けるだろう。もちろん、リスクはある。だから今回の法案によって、海外派遣中に「万が一、邦人が危険に瀕した際、武器によって守ることができる」ことになり、さらに「離れたところにいて危険にさらされた仲間の部隊を守ることもできる」ようになる。

対米追従というが、「周辺事態においては互いの利益から守り合うが、海外の活動が国際貢献になるかどうかの判断はその都度行います」と打ち出すことは、それほど難しいことだろうか。今までは九条があるから断れた、というのだが、他の国は九条がなくても断っている。

そもそも米軍との一体化を心配するなら、安保法案以前に憲法九条や自衛隊のありかたそのものから見直す必要がある。

参考
冨澤暉「『集団的自衛権』より『集団安全保障』」(ASREAD)
菊池雅之「多国籍PKO訓練『カーンクエスト15』」(『軍事研究』10月号)