独裁者が常に間違えるわけではないし、大日本帝国のように、みんなで決めたからといってうまく行くとは限らない。独裁者が常に悪いわけではなく、愚かな独裁者と狡猾な独裁者がいるだけだ。
今回は愚かな独裁者としてヒットラーを、次回は狡猾な独裁者としてスターリンを取り上げる。
スターリンとヒットラーは20世紀を代表する独裁者として並び称されることが多いが二人の政治的才能は「月とスッポン」「提灯に釣り鐘」。
ヒットラーは、英独海軍協定によって再軍備を事実上イギリスに認めさせ、非武装地帯であったラインラントに進駐することでドイツ人の誇りを取り戻し、オーストリアとチェコ併合により無血で領土を拡大してその人気は頂点に達っした。ここまでは一応成功(ドイツ側から見て)であったと言えるだろう。
最初の失敗
ポーランド侵略が英仏との戦争につながることを見抜けなかったことが最初の失敗。1939年4月英仏はポーランドの安全を保障したにも関わらず、ヒットラーは英仏が他国のために戦争に訴える覚悟があるとは信じなかった。
ミュンヘン協定に代表される英仏の対独宥和政策に味をしめたヒットラーは英仏が他国のために血を流すとは信じなかったのだ。
1939年9月3日英仏が対独宣戦布告した後も、翌年5月まで西部戦線が静謐を保ったこと自体、ドイツ側に英仏との戦争準備が全くなかったことを示している。
ヒットラーにポーランドを侵略する気にさせたのは、独ソ不可侵条約の秘密協定だ。そこで東欧の勢力範囲を取り決め、ポーランド分割を決めた。この時ヒットラーとスターリンの思惑は全く違っていた。ヒットラーは大した抵抗もなしに東方に領土を拡大できるのだから悪い取引ではないと考えた。それが英仏との戦争につながるとは考えなかったのだ。
一方スターリンは、英仏の対独宥和政策を見て、英仏はドイツの鋭鋒を東に向けさせようとしていると疑った。スターリンは英仏の裏をかきドイツと手を握り、逆にドイツと英仏を戦わせようとした。ドイツとのポーランド分割協定はそのための罠であった。
スターリンは、ヒットラーと違い、ドイツがポーランドを侵略すれば英仏はドイツと戦うと確信していた。但し独ソが同時に東西からポーランドに攻め込めば、独ソは同罪であるから英仏は独ソ両国に宣戦しなければならない。それを避けるためにスターリンは英仏の対独宣戦布告を確認した後、徐ろにポーランドに侵攻した。英仏は遅まきながら独ソのポーランド分割協定を知ったが、今更ソ連に宣戦布告するわけにはいかない。ポーランド侵攻をドイツより遅らせたのはスターリンの悪魔的知恵であった。
というわけでヒットラーの最初の失敗は、ポーランド侵略が英仏との戦争につながることを予見できなかったことだ。
第二の失敗
ダンケルクで装甲師団に停止命令を出しイギリス軍30万の脱出を許したこと。
Batttle of Britainで空襲対象を航空基地からロンドン等都市に変更したことによりイギリス空軍の殲滅に失敗したこと。それがBatttle of Britainにおけるドイツの敗北につながる。これは空軍元帥ゲーリングの失敗というべきか。
ドイツがBatttle of Britainに敗北しイギリス上陸作戦の無期延期を決定した直後、愚かにも大日本帝国は、ドイツの「快進撃」に幻惑され日独伊三国同盟を締結する。
第三のそして決定的な失敗
それはソ連攻撃。イギリス攻略が容易でないことを知ったヒットラーは、目を東方に転じた。元々ドイツ人は東方に生存圏を求める権利があるとするのはヒットラーの信念だ。だがイギリス攻略に手こずり目をロシアに転じたナポレオンの轍を踏むことに思いが及ばなかったのは惜しまれる。
歴史家は、ヒットラーが拙劣な作戦指導のためモスクワ攻撃に失敗したことを言い立てるが、仮にモスクワ占領に成功したとしても、最終的なソ連の勝利、ドイツ敗北の結果は変わらなかっただろう。モスクワ占領に成功したナポレオンが、這々の体で逃げ帰る破目に陥ったように。首都南京占領に成功した日本軍が、遂に蒋介石を屈服させられなかったように。
第四の失敗
真珠湾で日米が開戦した時、アメリカに宣戦布告したこと。三国同盟には自動参戦義務は規定されていなかったので対米開戦する必要はなかった。もっともあの時ドイツが対米宣戦布告をしなかったとしても、ルーズベルトはあの手この手でドイツを挑発し結局は対米開戦に追い込んだであろう。
連合軍のノルマンジー上陸作戦を陽動作戦と誤認し、反撃が遅れたこともヒットラーの失敗の一つに挙げていいかもしれない。これはイギリス情報作戦の勝利でもある。
次回は「狡猾な独裁者-スターリン」に続く
青木亮
英語中国語翻訳者