日本人が抱く「外国人」というレッテルのつけ方

にしゃんたさん、滞在歴30年、日本国籍を有し日本女性を妻にするというこの男性は、国内で外国人が起こす犯罪について、我が身のことに引きよせた結果、日本の中での良い人、悪い人のマーキングに基準がないということを語っている。

「良い日本人」に「悪い非日本人」という常識について考える。(にしゃんた)

…報道に対して違和感を感じる点はいくつかある。

1つは、加害者の名前と出身国(国籍)をかならずセットにして、しかも1ヶ月近く繰り返し報道されていることである。国家が、産み落とした1人の人間のためにどこまで責任を負わなければならないか。成人した子の行いに対して親がいつまで経っても追っかけられ、責任を負わされている妙にも似ている。加害者を表現するにあたって、国籍とセットで○○人として表現することが絶対的に必要なのかを再考しても悪くない。

「ペルー」と「殺人」のキーワードがセットになった報道が繰り返されては、受け手の多数派日本人は、国としての「ペルー」やペルー関連全般に対して、無意識に拒否反応をもつのではないか。そのことで日本の多数派が自ら視野を狭めてしまうだけではなく、ペルー人自身も、例えば、日本に住む5万人近くのペルー人全員に対しても偏見をもたれかねない。多数派も少数派も、自他ともに被る損失が大きい。

2つ目の報道に対する違和感は、報道におけるペルー人のアイデンティティは断片的であると言うことである。彼は「日系」であることが紹介から省かれている。彼は「日系ペルー人」である。ペルー人であると同時に日系人でもある。実は、彼が現在、日本に在住できる最大の理由は、彼は「日系人」ということにある。彼が日本に入国出来たのも、滞在資格の取得を可能にした最大の理由も彼が日系人であるということにある。日本の報道は加害者が「日系」であると言わないことによって、「日本人は悪いことをしない」と真実を歪曲させているとも思える。…

横綱白鷗も似たようなことを云っていたことがあったと思うけれど、日本人の国籍についての感覚はたぶん、他国の人々とは違うものを抱いているように思う。
だいたい日本では本人の国籍が分かっているにもかかわらず、「外国人」と十把一絡げな表現を普通にしてしまうのもの特徴だ。

元より他国と交戦することが非常に薄い歴史ゆえ、日本では国籍という言葉についての馴染みは薄い。人種ということについても、同様だと思う。
米国南部などでは北部よりアジア人だと明白に差別的対応を取られることがあるけれど、チップの弾み具合がいいと途端に手のひらを返すという態度を取るというようなことは、日本にはない。

昨今ヘイト○○などが取り上げられるけれど、あの現象は一部の国の人々を対象にしているのであって、「外国人」全般ではない。まだまだ日本は日常の中での人種差別という感覚が他国に比べて、緩やかなのではないかと思う。

それは日本文化の成り立ちと、関係があるように思う。

日本には、中国文化の影響がある。
これは同じ漢民族とはいえ、現在の中華人民共和国からではなく、遙か悠久の歴史の中に存在していた唐とか宋といった名前だった国の時に運び込まれたものだ。

しかし、そればかりでなく、日本には非常に多くの文化が持ち込まれ、それらの影響を帯びている。
日本人自ら持ち込んだものもあるけれど、何らかの理由で日本に辿り着いた「外国人」がもちこんだものも少なくない。そして、彼らは自分の持ち込んだ文化を先住である日本人のために紹介してくれた。

日本人に危害を加えることは無かったのである。文化の伝達のお礼に、集落が受け入れることで「外国人」は日本人と「なった」のである。
ちょうど多くの文化が日本という器の中で発酵して、日本文化という姿になったのと似ている。

そしてもちろん、集落は「外国人」を奴隷として受け入れたわけではない。
彼らの自由意志で日本人に「なった」という歴史があり、そうして日本は発達してきた。それが日本の歴史だ。
だから、日本人は外国人を日本人として扱うことは本人も喜んでいると思ってしまうのである。
それが嫌なら、「帰ればぁ~?」という反応になる。

ところが他国は国籍云々は市民権と密着している歴史がある。そのため、国籍の扱いが極めて明瞭で同じ国籍は、同国人となる。

日本では、社会に受け入れてもらうには、意思疎通が十分にできることが欠かせない。加えて、危害を加えないことも当然だ。
この2点を充たすと、日本人は国籍云々とは容易に切り離して「日本人」として、小さな集落に留まらず「日本の社会」が受け入れるのである。

そういうことは他国でも友人知人の間では生じるだろうが、社会というサイズになったときにも生じるのだろうか?
そこが、たぶん日本と違うような気がする。

これが日本人の原風景にある日本人と外国人との線決めであり、なにも「善人は日本人、悪人は外国人」というレッテルから生じているのではない。
だから、みしゃんたさんがいうような日系云々とかということには世論は頓着していないのだ。頓着しないことは、報道には出てこない。
それだけだと、思う。

だから、米国国籍である中村教授を「日本人」として扱ったのは、「日本語を話せるから日本人とは意思疎通が十分にできて、加えて、名誉をもたらした」からにすぎない。

自国の文化を日本のためになるような形で紹介してくれる外国人なら、日本人はウェルカムなはずだ。
国際化という旗印を掲げるのなら、日本はこういうところからの説明がたぶん世界に必要なのではないかと思う。