2012年10月20日のブログから
尊敬する井沢元彦の「逆説の日本史第12巻―近世暁光編P338~」から部落問題の起源をかいつまんで紹介することにする。
従来部落差別については政治起源説が有力であった。部落の存在は徳川幕府の「分断統治」の一環であり士農工商より更に下の身分を設けることで被支配階級である農工商の不満をそらすことが目的であったとする。つまり農工商から見れば「俺たちより下の身分がある、俺たちは彼らより恵まれている」と考えることで安心立命が得られ、延いては社会の安定がもたらされるとするもの。
その代表例は以下の通り
部落差別は近世の政治権力がつくりだしたもので近世の賤民制度は近世幕藩権力がつくりだした。
武士が農民支配を維持するために、農工商の更に下に穢多非人身分を制度化し農工商の不満を逸らすのに利用した。
辻本正教「ケガレ意識と部落差別」
実はこの辻本自身は「政治起源説」を否定している。その理由は、上記本の中に書いてある。
あんなもの(政治起源説)は嘘っぱちです。江戸幕府や藩の力がいくら強かったとしても「お前を明日から穢多にする」なんて強制できるわけがない。
第一歴史の事実としても幕府や藩は「誰と誰をいつから穢多身分にする」或いは「どの地域を穢多村にする」なんて法令など一切だしていない。
仮にそんな法令が出て「明日からお前は穢多になれ」と言われた本人が「はい、さようで、かしこまってそうらい」なんて受け入れるはずがない。周囲の人だって「アイツは明日から穢多身分になるから差別してやろう」なんてことになるはずがない。
辻本の本が手元にないので、彼が部落差別の起源をどう考えているのかわからないが、少なくとも「政治起源説」が成り立たないことはよく分かる。
士農工商の身分制度が政治起源であることは、明治になって身分意識が急速に希薄になったことからも明らかだ。部落差別が政治起源であれば、どうしてこの制度をつくった権力が崩壊した後も長く残ったのか説明できない。
つまりこの部落差別は政治や「お上」とは無関係に、人々の深層意識に根ざすとするのが井沢の見解。
その深層意識とは何か?井沢はそれを「血のケガレ」という一種の宗教的意識と見る。動物屠殺を生業とする人には血のケガレがとりついているとする人々の意識自体が部落差別を支えてきたとする。
では何故この「血のケガレ」説が一般に広がらず政治起源説がはびこっているのだろうか。井沢もここには書いていないが私の考えは以下の通り。
政治起源説は戦後マルクス主義史学の強い影響下に生まれた。マルクス主義史学では権力は常に悪であり、人民は常に善でなければならない、このような不合理な差別を善良なる人民がするはずがない。これはきっと権力の狡猾な企みに違いないと考える。
という次第であるからマルクス主義史学では人民自身がこの差別を支えたとなると具合が悪いことになる。
井沢はこの続きで日本教は二つからなる、一つは「ケガレ」もう一つは「和」とする説を展開する。日本人が独裁者を嫌うのは「和をもって尊しとなす」思想が「ケガレ」意識と共に無意識下にあるためだとする。この問題も非常におもしろいテーマではあるが別の機会に譲ることにする。
追記
昨年(2011年)3月11日以来の福島県民への理不尽な仕打ちを見るにつけても、差別の生成過程をリアルタイムで実見できたような気がする。但し福島県民への差別は「血のケガレ」ではなく「放射能のケガレ」によるもの。人民はかくも愚かなり。
マルクス主義が急速に力を失ったのもこのリアリズムの欠如によるものと考える。
青木亮