毛沢東の失政は、数えきれないほどあるが最大のものは大躍進の失敗だろう。1958年から60年に及ぶ餓死者3600万人は、史上比較するものがないほどの暴政の産物である。孔子があの惨状を見たら「苛政は虎よりも猛し」と慨嘆したに違いない。
あの大量餓死をもたらしたものは何だろう?
中国政府は、自然災害やソ連の援助打ち切りのせいにしているが全く事実に反する。あの時期特別気候条件が悪かったわけではなく平均気温、降雨量も平年とさほど変わらない。ソ連の援助打ち切りは工業と軍事面の技術協力が対象であって農業生産とは関係がない。
要因を以下の3つに分けることができる。
1 農業生産における要因
土地公有制による生産意欲の低下
土地公有、生産物公有の結果農民の勤労意欲は著しく低下した。
不合理な密植深耕は、農業資源の浪費、不作を招いた。
2 農産物の不合理な配分
飢餓は必ずしも食物の絶対量の不足によって生じたわけではない。合理的な配分がなされていれば、飢餓の相当部分は防げたはず。
地方幹部は中央にいい顔をするため生産量を過大に申告した。それが過大な供出、末端における食料不足につながった。
当時中国は食料しか輸出するものがなかったので、工作機械等輸入代金決済のため食料を輸出した。対外債務の支払い(ソ連向け)、友好国への援助にも食料が使われた。
3 農業外の要因
公共食堂における濫費。無料無制限で食事を提供したため、腹がはち切れるほど飽食するものが多かった。社会主義であるから食料が不足すれば国家がいくらでも提供してくれるという思い込みがあった。
製鉄と土木水利事業に人手が割かれたため、農業部門の人手が不足した。
ソ連が15年で鉄鋼生産においてアメリカに追い越すと宣言したのに触発されて、中国は15年でイギリスを追い越すことを目標とした。だがその製法が土法炉によるものであったため使い物にならない屑鉄を作っただけの無残な結果に終わった。しかもその過程で途方もない人力と森林資源の浪費が発生した。人力不足のため実った作物を収穫する人手を欠きそのまま腐らせたことも多かった。
当時機械力が乏しかったため土木工事は膨大な人力を必要とした。
毛沢東が、あれほど鉄鋼の増産にこだわったのは、経済建設で大きな成果を収めスターリン亡き後世界の社会主義諸国の盟主たらんとする野望があったから。
雀退治
雀は害よりも益が多いことを知らず雀退治に精を出した。その結果害虫が大量に発生し農業生産に打撃を与えた。
政策転換の機会はあった。
廬山会議で彭徳懐が大躍進政策を批判した時が、政策転換の好機であったが、逆に彭徳懐と彼を支持する少数の幹部は毛沢東によって右翼日和見主義と批判されたため、大躍進にブレーキをかけるどころが、アクセルを踏む結果に終わった。彭徳懐の控えめな批判され許されなかったところに皇帝支配の本質がある。
この暴政を毛沢東一人に責を負わすのは公正でない。暴君の虐政を誰も止められず、それどころか暴君におもねって下に臨み過大なノルマを課す共産党の組織自体がはらむ病理が生み出したものと見るべきだろう。当初大躍進に否定的だった劉少奇、周恩来等幹部も、毛沢東が大躍進に執着していることを知ると、毛沢東に調子を合わせるようになった。劉少奇は文革中批判され悲惨な死を遂げたが、大躍進失敗の責任の一端は免れない。
スターリンは死後ほどなく厳しく批判されたが、毛沢東は、生前は勿論のこと死後も中華人民共和国のシンボルであり続けているのはなぜだろう。スターリンは、ソ連邦の建国者ではないため最後までレーニンの正統な後継者であることを自らの正統性の根拠としたのに対し、毛沢東は建国の英雄であり、毛沢東を否定すれば、共産党政府の正統性が揺らぐからだ。さすがに大躍進、文化大革命を主導した毛沢東を無条件で賛美することはなくなったがそれでも「功績7分、誤り3分(鄧小平)」と基本的には肯定的な評価だ。
天安門広場にある毛沢東記念堂に安置されたその遺体が撤去され、天安門上のその肖像画が引きずり降ろされる日が来るとすれば共産党支配が終わる時しか考えられない。
毛沢東在世中、一人の荊軻(けいか)も現れなかったのは中国人民のために惜しむ。
中国政府は日本に対し「歴史を直視せよ」と説教を垂れる前に、建国以来60余年の自らの歴史を直視しなければならない。
青木亮
英語中国語翻訳者