ハンガリーで1956年、ソビエト連邦の支配に抗議した国民の抵抗が始まった。同抵抗運動は通称“ハンガリー動乱”と呼ばれ、今月23日で59年目を迎える。この民衆蜂起は圧倒的な軍事力を誇るソ連軍によって鎮圧された。
ハンガリー国民は一時、政府関係施設などを占拠し、民主化に乗り出したが、ソ連軍が介入し、翌年1月に民主化運動は終わった。同動乱で数千人の市民が殺害され、約25万人が国外に政治亡命した。隣国オーストリアにも多くのハンガリー人が政治亡命してきた。欧州の著名な東欧問題専門家パウル・レンドヴァイ教授もハンガリー動乱時にオーストリアに亡命した一人だ。
同動乱はポーランドの自主管理労組「連帯」運動やチェコスロバキア(当時)の自由化路線(通称「プラハの春」)に先駆けて起きた東欧の民主化運動だった。その運動がソ連軍に鎮圧された。ハンガリー動乱はソ連の衛星国家だった東欧諸国の国民の記憶に長い間、重く圧し掛かってきた。東欧の民主化は、国民が再び立ち上がる1980年代まで待たなければならなかった。
ハンガリー動乱といえば、当方には忘れることができない家庭がある。ハンガリーがまだ共産党政権時代、当方はブタペストのその家に度々厄介になった。ペスト地区の繁華街バ―ツィー通りにあって、交通の便も良かった。アパートメントの最上階の家から眺めるブタ地区の朝の風景は素晴らしかった。
当方は当時、“マルタさんの家”と呼んできた。お母さんの娘さんの名前だ。お母さんの夫は大学教授だったが、ハンガリー動乱に関与したということで職を失い、病気で亡くなったと聞いた。
マルタさん親子と初めて知り合ったのはブタペスト西駅の構内でだ。ウィーンからブタペスト入りした夜、当方は宿泊先を決めていなかった。そこにマルタさんと母さんが声をかけて来た。「近くに安い民宿があるからどうか」という。当時は、西側からきた旅行者に部屋を貸し、生活の足しにする市民が多かった。
人のいい母娘という感じだったので、マルタさんの民宿に一泊することにした。民宿というより、マルタさんのアパートだ。部屋に入ると、客室を紹介された。風呂は兼用。朝食もお母さんが準備してくれた。
それからハンガリー取材の度にマルタさんの家に厄介になった。お母さんからはハンガリー動乱やその時の政治情勢について教えてもらった。民主化後、ご主人さんの年金が入るようになり、部屋を旅行者に貸す内職は止めた。その数年後、マルタさんの家に電話をかけたら、お母さんが亡くなったことを知った。
ハンガリー動乱は来年、60年目を迎える。動乱と聞けば、当方はマルタさん親子をどうしても思い出すのだ。動乱後、ハンガリー国民は生き延びていくために苦労した。マルタさんの家も例外ではなかった。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年10月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。