「月の沙漠」という童謡を聞くと、目頭が次第に熱くなるのを感じる。いつもそうだ。まだ見たこともない砂漠の世界が脳裏に浮かび上ってくる。やり切れないほどの静かさの中、月だけが神々しい光を放つ。
ウィーンの自宅の仕事場で疲れたら窓から空を見ると、午前中ならウィーン国際空港に向かう旅客機がかなり大きく見える。大好きなコーヒーもその気になれば何杯も飲める。砂漠の反対の世界だ。そして自分は砂漠の世界には生きていけないことを感じる。コーヒーが自由に飲めないからではない。砂漠の世界に生理的に耐えられないと感じるからだ。
昨年5月、ヨルダンの首都アンマンに取材で出かけた。幸い、砂漠を目にしなかったが、その空気や大地は乾燥していた。アンマンより砂漠に近い場所を訪れたことはない。欧州の国々はほとんど訪問したが、砂漠との出会いをこれまで避けてきた。
多分、砂漠には神が存在し、そのプレゼンスを感じることができる場所だろう。砂漠では、心を動かされる何もないので、人の思考は自然に天に向かう。そして唯一の神を崇拝する宗教が誕生したわけだ。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の唯一神教が砂漠の地で生まれたのも偶然ではないはずだ。唯一神教は“砂漠の宗教”と呼ばれている。
イスラエル民族の指導者モーセは60万人の民を率いてエジプトを出国し、荒野を流浪した。イスラエルの民が金の子牛をつくり、それを「民を導いた神だ」として崇拝する姿を見たモーセは激怒した。お腹が空いたとしてエジプトを恋い慕う民を見てがっかりする。神はイスラエルの民にマナとウズラを与えた。モーセは40日間断食しながら、神に呼ばれ、あの有名な十戒を神から受け取っている。エジプトから出たイスラエルの民の多くは荒野で死んだ。ヨシュアに率いられて約束の地に入れたのは荒野で生まれた2世たちだった。唯一の神を崇拝することは如何に難しいことだろうか。
なぜ、神はイスラエル民族を砂漠に導いたのだろうか。もっと楽な道があったが、神はその道を選び、導いた。何の助けも期待できない砂漠でイスラエルの民が自分に救いを見出すことを願っていたのだろうか。なぜならば、神は“妬む神”だからだ。
当方は音楽の都ウィーンに住んで長くなる。26日、初雪が降った。雪を見ながら、コーヒーを飲み、新聞を読む。多くの人々でにぎわう都会に住む当方が神を見出すことは容易ではない。弁解に聞こえるかもしれないが、実際問題だ。欧州のキリスト教社会で神は次第にその姿を隠し、教会も内外の問題を抱え、生きのびていくのに苦慮している。
「都会の砂漠」という言葉がある。多くの物質に取り囲まれ、一見、恵まれているが、心の世界は砂漠のように乾燥している都会人が少なくない。そのような都市社会の真っ只中、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が襲ってきた。カリフの世界、イスラム国の建設を訴え、異教徒を襲撃する彼らの姿は異様であり、どこか砂漠から来た群れのような雰囲気を与える。
「イスラム国」メンバーの多くは砂漠の世界を知っているのだろう。「都会の砂漠」(ホームグロウン・テロリスト)から、ある者は「中東の砂漠」から来たテロリストたちが、獰猛な野獣のように襲いかかっている。砂漠は神に出会う場所かもしれないが、同時に、悪魔の声も聞こえてくるのではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年11月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。