小保方氏手記を読んで――過剰取材と被害者意識の悪循環

■若干ちぐはぐ
小保方晴子『あの日』(講談社)を読んだ。

先にネット上で公開されていたまえがきを読んで「この調子で一冊書いたんだろうか」と訝ったが、本文、特に専門的な記述の部分は前書きとはギャップがあり、硬質な文章になっていた。それでも心情を表す時には柔らかい(軽い)表現もあり、また書き込みの詳細さにムラがあるなど、全体として若干ちぐはぐな印象を受けた。

また、事件の全貌を知りたいという欲求にこたえるものではなかった。核心である数々の、考えられないような論文作成時のミスに関しても細やかな説明がなされていない。あれだけ話題になった実験ノートについても他にきちんとしたノートがあるとのことだが、その画像などは掲載されていない。


■「被害者」という免罪符
『あの日』で再燃したSTAP騒動については様々な論点があるが、メディアの対応や世論のあり方に絞って考えてみたい。

『あの日』で「取材攻勢は殺意を感じさせる」「脅迫のようなメール取材」とまで批判されている毎日新聞・須田桃子記者の『捏造の科学者 STAP細胞事件』(文藝春秋)も刊行時に読んだ。これは事件の経過についてはよくまとまっていたし、関係者のメールの引用などもあり、興味深かった。

事件から日が浅かったためか、その全貌を明らかにするには及ばなかった。ただ「〇〇さんが間違えるはずない」「こんなことを相手に聞いたら失礼ではなかろうか」と言った踏み込みの甘さによって、最終的に出来上がった論文が孕む問題が大きくなっていったらしいことは読みとれた。

だが取材合戦の様子には(殺意までは感じないものの)、率直に言って嫌気がさした。須田記者は「一度は素晴らしい功績だと報じてしまった責任から、徹底的に問題を追及した」というようなことを書いている。真実を追う記者としての使命と「特ダネ」狙いの姿勢があいまったのだろうが、その様子は客観的にみると辟易するものだった。

自分では真実を追う正義の記者だと思っていても、相手から見れば嗜虐性をむき出しにしているように見える。『あの日』と付き合わせて読むと、その様子がうかがえる。

電話攻勢、メール攻勢、突撃取材などは、マスコミの中の人たちにとっては「国民の知る権利に応えたい」という建前なのだろうが、実際には余計に当事者が話せない状況を作りだしていた。NHKのように、相手をトイレまで追い掛けるようなことをすれば、された方の被害者意識は募る一方だ。そしてそれは、「国民の知る権利」に応えるどころか、むしろマイナスに作用してしまう。

追及しなければ答には近づけない。しかし追及し過ぎれば真実は逃げて行く。「ほどほど」はかくも難しい。自らを被害者の側に置いてしまう小保方氏も問題だが、そうさせてしまったメディアにも責任はある。小保方氏は正当な批判や追及も攻撃と受け取り、さらに口をつぐむ。できたかもしれない取材もできなくなる。結果、メディアは小保方氏に「私は被害者である」という免罪符を与えたことになる。まさしく悪循環だ。

例としては多少、話はずれるかもしれないが、朝日新聞の植村隆元記者のことを重ねてしまう。彼にも誤った記事を書いた責任はあるはずなのだが、自宅や大学に届いたという脅迫文によって、植村氏は「被害者である」という免罪符を手に入れてしまった。そして氏はまっとうな指摘さえ「脅迫を唆した」かのように訴え出た。脅迫は悪だが、だからと言って誤報の責任は免れない。しかし脅迫によって論点そらしのための材料を与えてしまったことになる。

■「正義感」同士のぶつかり合い
小保方氏の場合も同様だ。STAP問題はあくまで科学の話だったはずが「あまりにマスコミに叩かれる小保方氏は被害者ではないか」という別の論点が生まれる。本人が被害者意識を募らせるのも無理はないのかもしれないし、彼女を擁護したいという人たちが出てくるのも分からないではない。

しかしいくら小保方氏が可哀想だといっても、正しいかどうかとはまた別だ。マスコミに問題が多いのは確かだが、反マスコミ的姿勢が常に正義というわけではない。

真面目な検証ブログなどもある一方、声高に主張する人は批判か擁護かが明確な人が多く、あえてかなり誇張して言えば小保方さんを批判する人は「能力以上の評価をされただけの小娘を『科学』を武器に小突きまわしたい」傾向があるし、擁護する方も「純粋に科学に向き合いながら悲運に見舞われ石を投げられた悲劇のヒロインの側に立つ騎士でありたい」傾向があるように思える。この互いの勢力が、当人を挟んでそれぞれの「正義感」を持ってやりあっているからこそ、本人が恐怖を覚えるほどの過熱報道やネット上の応酬につながったのだろう。

■過熱報道を考える材料に
科学の話・マスコミの対応を含む騒動の話・小保方氏の人物評価はそれぞれ別なのだが、全てをひとまとめにして「擁護するか」「しないか」になるのはいい傾向ではない。より悪いのは、「信じる」「信じない」といった言葉が飛び交うことだ。

「信じる」「信じない」は、政治の話でもよく聞かれる。政治家はいつから信仰の対象になったのだろうかと思うが、一方で科学の話でもここまでこじれて最後は当事者や互いの陣営の人格否定になってしまうのだから、原発や安保法制、憲法、経済政策などの問題が冷静に議論されることなど不可能に近いのではないかと暗い気持ちになる。

「科学の話なのだから論理的な話になるはず」ということ自体が、小保方氏が手記で示しているのと同様、科学に対する幻想なのかもしれないが……。

STAP騒動は科学史のみならず、メディアスクラムなど報道の問題、当事者の手記の読み方、ネットを含めた世論における議論、あるいは著作の引用記事の〝良識〟のあり方など、多くを学ぶ事例になりそうだ。

梶井彩子
ライターとして雑誌などに寄稿。
@ayako_kajii