元少年Aの「ゲーム」を再開させるな

■「鬼の形相」というが……
『週刊文春』が「元少年A」の自宅を突き止め、250日にも渡って追跡、直撃取材をしたという。Aは、「顔と名前は覚えたぞ」と言って記者を1キロにわたり追いかけ、鬼の形相を見せたと記事にはある。

私でも、250日間追跡され、直撃されたとなれば、「顔と名前は覚えたぞ」と言って鬼の形相をしたかもしれない。しかも記者がAを逆上させたうえにショッピングモール方面という多数の人々がいるであろう方向に逃げたというのも疑問だ。Aが破れかぶれになって無差別殺人でも起こしていたらと考えると血の気が引く。

記事には「私たちの社会はAをどのように受け入れて行けばいいのだろうか」と急に朝日新聞調になる一文もあったが、少なくともこの取材姿勢は「Aを受け入れるつもり」があるようには思えない。「これが週刊誌」といえばそうなのだろう。だが「文春すげぇ」「記者はお手柄」と手放しでほめるだけでいいのだろうか。


■自己承認欲求の手助け
元少年Aが出版した手記『絶歌』(太田出版)は世間を揺るがせたし、出版社の被害者遺族に対する対応を含めて倫理的にも問題があった。Aが手を出したブログ開設やメールマガジンの配信が遺族や世間の人々を不快にさせたことは間違いない。文春にとって、「元少年Aとの接触」は確かにビッグなネタだろう。

一方で、騒ぐことそのものが、Aの承認欲求に応えている(満たしてやっている)、あるいは欲求を誘引する事に繋がるのではないかと疑問を抱く。Aが出版社に原稿を送れば本になり、本を出せば社会現象となり、二万字余りの手紙を送れば週刊誌に掲載される。「探してくれ」と言わんばかりの出版社への投書やネットでの露出。本当に隠れていたいならこんなことはしない、というのはその通りだ。

ある殺人者が自身の人生を綴ることが無意味だとは思わないし、「第二の酒鬼薔薇」を防ぐヒントが本から読み取れることもあるかもしれない。だがAが発表しているものを素人目で見ると自己顕示欲の肥大を感じざるを得ない。

太田出版をはじめとするメディアがAの欲を満たしてやって、本を売り、話題になったら本や雑誌をさらに売るというのは、ほとんど負の再利用のような図式だ。中には『絶歌』から多く引用して書かれた明らかな便乗本もあった。だがAのサイトはそれほど盛り上がってはいない。私も一、二度のぞいたが熱心な読者にはならなかったし、年明け以降の「文春連弾」でAのことなどほとんど忘れていた。『週刊文春』の記事で思いだしたのだ。

結局、Aを今も「元少年A」たらしめているのはメディアということになってしまう。

■本当に「更生」を求めてますか?
Aの記事や番組をメディアが発表する際、「我々は興味本意ではなく、社会的に問題提起しているのです」とのタテマエを保つために「このままでは再犯は防げない」「本当に反省しているのか」といった一文を添える。だが「本当に更生を望んでいるのだろうか」という疑念も湧く。

『絶歌』に対する論調で興味深かったのは、人殺し犯は「ほとんど誰もが絶対的正義の側に立って批判や『私刑』を下せる相手」になるということだ。

庇う気も同情心も一切ないが、Aを死刑にしなかったのは日本の法律だ。「人を殺した人間は、仮に刑を受けたからとて大手を振って天下を歩くな」というのも感情で言えばもっともだが、法に則った結果なのだ。問題に対しては司法の問題を追及、少年法改正や「サムの息子法」制定などの世論喚起をするべきだ。

『週刊文春』記事も司法の問題点には触れているが、その姿勢を支持する人の意見は「Aのやつ、人殺しのくせに調子乗っとんな。被害者が可哀想や。だから文春にシメられるんじゃ!」といった私刑の色合いも帯びている。

もう一つは、「更生は失敗だった」「反省していない!」との声だ。だがその人たちはAが本当に反省し、土下座し、涙ながらに被害者や世間に詫びるところを見たいのだろうか? むしろ「生まれながらの殺人者」であることを、どこかで期待しているのではないか? 「再犯に及ぶことで訪れる社会の大騒ぎ」を待望してはいないか? 「やっぱりあいつは変わっていなかった」と結論付ける出来事を内心、期待していないか? 常に自問すべきだろう。

世間はAに対してどのような「更生後の姿」を期待しているのだろうか。酒鬼薔薇事件より28年前、少年が同級生の首を切り落とし殺害する事件が起きた。奥野修司『心にナイフをしのばせて』(文春文庫)は、加害少年と被害者遺族のその後を追ったノンフィクションだ。この加害者は「更生」し、その後弁護士になったことが明かされている。だが当初遺族に約束した七百万円の慰謝料(分割払い)は、最初の二年払ったきりになっていたという。

この本を読んで「犯人が更生して真面目に勉強して弁護士になれてよかったね」と思う人は少ないだろう。率直に言って読後感は最悪だった。

■「ゲーム」を再開させるな
事件当時、Aの顔写真を『FOCUS』(新潮社)が掲載した際には、Aに対する同情論が集まったという。(ちなみに当時、顔写真掲載を強く主張した山本伊吾氏が「もし手記が持ち込まれたら?」の質問に、「編集者としてどうすれば出版できるかという方向で考えたでしょうね」と答えていて驚いた(『元「少年A」を斬る!』、宝島社))

Aを社会的に追い詰めることで「被害者」を主張できる材料を与えてしまうと、本人が被害者意識を持つだけでなく、周囲に本人を過剰に擁護する信者めいた人たちが発生する。ただでさえ、Aのブログには複数の好意的なコメントが書き込まれている。この報道の後、どのようなコメントやメールがAの元に届くのか、想像もつかない。それがどんな影響に繋がるのかも。

気がかりなのは追いつめられて「誰も俺の更生なんて期待しちゃいない」と考えたAが自殺や再犯に至る可能性である。特に再犯の場合はさらなる被害者を生む。もしAが再犯に及ぶ「その時」が訪れたら、「私刑」を行なった人たちはいかなる責任を取るのか。

今回の『週刊文春』の記事が、元少年Aの再犯の呼び水にならないよう祈るばかりだ。19年前、Aが始めた「ゲーム」はメディアを巻き込んで膨れ上がって行った。Aと2歳違いの私は、当時メディアを通じてその行方を目の当たりにした。もう二度と再開させてはならない。

梶井彩子
ライターとして雑誌などに寄稿。
@ayako_kajii