「論評における非名指し」考

若井 朝彦

ややこしいタイトルになってしまったが、これは広い意味での「匿名論評」についての問題である。ここでいう「非名指し」というのは、論者が相手となる対象の名前を伏せたり、ぼかしたりすることを想定している。相手を曖昧にするのであるから、その手法はいくらでもあるわけだが、相手を実名ではなく「某が」であるとか「ある研究機関の責任者によれば」であるとか、さらに茶化しを入れて「大先生」「その筋の権威」「黒幕」などと呼んだり、もっとあやふやにしてしまうような場合。

匿名による発信については、もちろんよく問題にされている。ネット上ではそれは匿名というよりも「無名」ともいうべきであって、特定されない発信源が、容赦ない意見を飛ばしてくる。

ただ無名匿名発信では、対象相手の名前が伏せられることはあまりない。どれだけ攻撃的になっても、反撃を心配する必要がほとんどないからである。したがって無名匿名論評が、総じて無責任に傾きがちであり、またその弊害も小さいものではなく、時には放置できないレベルになるわけだ。そうなると、結局のところ何らかの方法で発信者は特定されてしまうわけだが。

たしかにあらゆる論評が実名であることにこしたことはない。実名での論評では、発言の責任の度合いは高くなる。では実名の論評が、それだけで責任を全うしているかというと、これはもちろんそうではない。

根拠が十分に示されていなかったり、引用がいいかげんであったりといった論考としての質の問題も前提としてあるわけだが、だがすくなくとも実名であれば注意や批評を受け入れる準備はできているとはいえる。

しかし実名発信者が、対象をどう扱うのか、という問題もまたある。

対象を個人とするのか、集団とするのかによっても論のはこびはちがってくるが、発信者がたとえば「これは現段階では確言できないが、注意喚起しておく必要がある」などと判断した場合、相手の名前をぼかしたり、または対象を集団として論を進める場合も、やはりあるだろう。

対象を隠語で呼んで仲間内だけの話題にしてしまうこともあるわけだし、また返り血は絶対に浴びたくないという人もいて、こんな場合は、相手をイニシャルで済ませて平気である。

しかし論評もこの程度にまで落ちるとなると、発信者が実名である意義はほとんどない。むしろ、「非名指し」で批判された相手が(それが誰であるかは、周囲から見てもあきらかであっても)反論ができなくなってしまう。名乗りを挙げられなくなるのである。ある種の封殺。

つまり「非名指し」で発信された論評は、無名匿名による批評よりも厄介である場合もあるわけだ。たとえ無名匿名の論評であっても、発信者が相手を「名指し」さえしていれば、発信媒体、発信ページなどに向かって、最低限の反論をすることは可能だからである。

遠慮というものがある。自己規制もある。確信が持てない場合もある。発信者はだれしも、その時々にいろいろなレベルで対応しているものだ。実際のところノーガードの、実名同士の打ち合いというものはなかなかないのである。

ただ立場の弱いものが、権力を「非名指し」で批判する場合はまだしも、権威も権限もあるものが「非名指し」で批判をしたら、これはもうたまらない。新聞の社説やコラムでも、この傾向はないわけではない。

またそういった大手マスコミが多用する、自分の言いたいことをコメントとして識者に代弁させるといった手法もこれに絡む。上手にいったら新聞社の手柄、失敗したら識者の責任。あらかじめ「逃げしろ」を準備しているわけだ。無名匿名以上の複雑な何か。

このように発信者と対象者の「間合い」がどうであるかといった観点も、匿名の問題とならんで、いますこし重んじられてもいいのではないか、わたしとしてはそう考えるところである。

 2016/02/21
 若井 朝彦(書籍編集)

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