“ショーンK”騒動〜「形」を過剰に重んじる日本社会 --- 天野 貴昭

下世話な記事には全くといって興味のない僕なのですが、昨今の週刊文春の調査力にはすっかり感心しきっております。きっとかの編集部には水戸黄門の「弥七」がいるに違いないと思うほど。

そこで今更ながら一昨年の佐村河内氏から過日のショーンさんまで、文春報道を紐解いてみました所、僕の脳裏に、激動の明治~昭和を生きた小説家、菊池寛の代表作である「」という物語が浮かんで来ました。

昔、摂津国に中村新兵衛という、それは強い侍がいました

彼は強いだけではなく、真っ赤な羽織とあでやかな兜(猩々緋の服折と唐冠纓金の兜)を常に身にまとい、「戦場の華」と呼ぶに相応しい存在でした。

ある日、新兵衛は幼少から守り役として育ててきた若侍から、初陣の日に新兵衛の戦装束を借して欲しいと懇願されます。

新兵衛はその子供らしい無邪気な功名心をこころよく受け入れ、「中村新兵衛の『形』である装束を身につける以上は、自分と変わらぬ魂をもって戦場に挑む事」を条件にこれを貸与します。

さて、初陣当日。中村新兵衛の「形」を着た若侍は次々に華々しい手柄を立てて行きます。新兵衛は自分の形だけすらこれほどの力をもっているということに大きな誇りを感じました。

そして若侍に続き、新兵衛は普段と違う装束で敵陣に乗り込みます。そこで彼はある異変に気づきます。

いつもは敵にある「虎に向かっている羊のような怖気」を今日は感じません。どの雑兵も十二分の力を新兵衛に対し発揮し襲いかかって来ます。新兵衛は平素の何倍もの力を振るいましたが、突き負けそうにさえなります。

手軽に装束を、「形」を貸与したことを後悔するような感じが頭の中をかすめたとき、敵の槍が彼の脇腹を貫きました。

…「実力社会と銘打ちながら外見を重用視し続ける日本の社会風潮」を痛烈に風刺した菊池寛渾身の名作だと思っています。この物語は中学校の教科書でも採用されているのでご存じの方も多いのではないでしょうか?

もしかすると文春は単なるゴシップではなく「彼らを糾弾する大衆」に向けても何らかのメッセージを訴えたいのかもしれないと考え出しています。

確かに嘘はいけませんが、もし新垣さんやショーンさんに存分の力があったにも関わらず、「形」を持ち得なかったばかりに戦場にすら立てなかったのならば、さながら、戦場には鎧だけ豪華でまるで使い物にならない武者ばかりが跋扈している…ような側面がある気がしませんか?。

古来より日本には「形を習得すれば、中身はついてくる」という哲学感があるのは事実であります。しかしそれは「体裁だけ整えておけば中身はいらない」「むしろ、外形の方が大切」という風潮を産み、深い厄災を日本社会に産出し続けているのも事実ではないでしょうか?

まずここで大切な事は、ショーンK氏の能力が彼の力なのか、「借りた鎧の恩恵」なのか検証する事で、そこでもしショーン氏が「形に中身が付いて行けてない人物」だと解れば、皆さん存分に彼の脇腹を突いて殺せば良いとは思います。

しかし「形を持ち得なかった者が戦場に立ったこと自体が悪」と考える風潮には正直困惑しています。今の日本てそんな甘い事言っていられる様な状態なのでしょうか?

これでは「日本死ね」ではなくて「日本死んじゃうよね」です。
皆さんはどう考えますか?

天野貴昭
トータルトレーニング&コンディショニングラボ/エアグランド代表