“国のない民族”の苦悩と悲しみ --- 長谷川 良

約3000万人のクルド人が中東地域を中心に住んでいると推定される。固有の領土と主権を持たない世界最大の民族だ。当方は1990年代から2000年代初めにかけて国連記者室でクルド人記者と知り合いになった。彼のグループが主催するクルド系集会にも顔を出したことがある。ある時からその記者は顔を見せなくなった。

それから半年以上が経過したと思うが、当方は居住しているウィーン市14区の警察当局から呼び出しの手紙を受け取った。何事かと心配しながら警察に出頭すると、「君はこの男を知っているか」と聞いてきた。知人記者の名前があった。警察側の説明によると、「知人が当方の名刺を持っていた」という。警察側は知人と当方の関係を知りたかったのだ。

当方は、「自分は記者だから多くの人に名刺を渡す。自分はクルド人の友人もいる」と正直に報告した。知人はウィーンではなく、ザルツブルク地域にいるらしいことが分かった。ひょっとしたら、不法活動の容疑で手配されたのかもしれない。警察側は当方の説明を聞いた後、「君の証言に偽りはないことを宣言する書類に著名してくれ」という。用件はそれだけだった。それからは警察側の呼び出しは無くなったが、知人の行方は全く分からない。

クルド人は弾圧されてきた民族だ。オスマン帝国崩壊直後の連合国との交渉でクルド人に独立国家を認める講和条約(1920年セーブル条約)が提案されたが、トルコ側の反対を受けて結局実現されずに今日に至っている。

クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアで少数民族として民族の独立を勝ち取るために戦ってきた。イラクではクルド人が既に自治政府を樹立しているところもある。テロ行為は許されないが、クルド人が国家建設を願うその心は同情に値する。

ウィーンの国連で先月、シリア問題の国際会議が開かれたが、一人のパネリストが、「シリア問題より大きな問題はクルド問題だ。クルド問題が動き出したらシリア内戦以上の犠牲者が出るだろう」と語っていたのが印象的だった。シリア内戦は本当の危機の序盤戦に過ぎない。クルド人問題が爆発すれば中東は大混乱に陥る、という預言者的な警告だった。

世界には固有の領土と主権を持たない民族は少なくない。その代表的な民族はユダヤ民族だった。イエス殺害後、ユダヤ民族は領土を追われ、世界に散らばった放浪の民となった。第2次世界対戦ではナチス・ドイツ軍によって数百万人の同胞を失った。そのユダヤ人は1948年、失った領土を回復するために立ち上がり、イスラエルを再建した話は有名だ。

ちなみに、キリスト教会では放浪の民だったユダヤ人が世界から再び集まって国を再建する時、メシアが再臨する時を迎える、という預言が広く伝えられている。

ユダヤ民族は独立国家を再建したが、その結果、パレスチナ人は領土を追われた。彼らはその後、イスラエル人に奪われた領土の奪回のために戦いを繰り返しているわけだ。

中東地域ではクルド民族、ユダヤ民族、そしてパレスチナ民族が失った母国の領土、国家を復帰するために多くの犠牲を払いながら戦ってきた歴史がある。21世紀はグローバル時代と呼ばれ国境、民族の壁は前世紀よりその価値を失ってきたが、国を奪われた民族は祖国の奪回を忘れることがない。

それにしても日本民族は幸いだ。四方を海に囲まれていたこともあって、国を失ったことがない。その時々の政権が良くないため、国民が苦労することはあったが、母国を奪われ、失った民族が味わってきた苦渋は体験せずに済んだ。クルド人、パレスチナ人の話を聞くたびに、日本人は誰に感謝すべきなのか、と考えざるを得ない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年3月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。