応神・継体新王朝とか騎馬民族説はありえない

戦前の日本人は、日本は開闢以来、君臣の区別がはっきりしていて、万世一系の天皇のもとで国民が一つになって歩んできたという、万世一系論を信じていました。

ところが、戦後は日本が特別な国だなどと舞い上がると良くないと憂慮して、皇統がどこかで断絶した可能性をなんとか発見できないかと歴史学者たちが珍説を競うようになっています。

とくに、江上波夫は応神天皇が大陸からやってきた「騎馬民族」の首領だというロマンあふれる説を唱えました。東京大学教授でなかったら誰も相手にしないお粗末な作り話でしたが、肩書きがものを言って一世を風靡し、最近でも信じている人がいます。とくに小沢一郎氏はソウルで自分も本当だと思うと講演して韓国人を喜ばせました。

また、早稲田大学の水野祐の三王朝交代説は、神武天皇と欠史八代は史実でなく、崇神天皇が大和を統一して建国したが、南九州にあった狗奴王国の応神天皇とその子の仁徳天皇が河内地方に新王朝を開き、さらに、越前国から継体天皇がやってきて現在の皇室が始まったという説をとなえました。

しかし、これらはまったく変な話です。たとえば、継体天皇が武力で大和を征服して新王朝を立てたというなら、継体天皇を初代にすれば良かったのです。記紀では神武天皇も、大和にいた支配者を追い出して建国したとしているのですから同じです。

もう少し遠慮して、継体天皇は応神天皇の子孫だと僭称して大和を征服したのでないかという人もいますが、それなら、継体天皇は偉大な英雄として記紀に書かれていたはずです。ところが、記紀には武烈天皇の宮廷を牛耳っていた大伴金村の勧めで皇位継承を引き受けたものの、大和にもなかなか入れず、さらに半島の領地である任那四郡を失った冴えない天皇という扱いなのですから辻褄が合いません。

それに継体天皇の家系はマイナーな皇族でなく、允恭天皇の皇后を出し、継体天皇の父親は雄略天皇の従兄弟ですし、皇室の系図がまとめられたとされるのは、推古天皇の時代ですが、推古天皇は血筋としては継体天皇の孫です。デタラメの系図を語るにはちょっと早すぎます。

やはり、記紀にあるように、仁徳天皇の子孫の多くが雄略天皇によって粛清されて適任者がいなくなったので、仁賢天皇の皇女の婿に遠縁の継体天皇を迎えたというのは不自然でありません。

この経緯でもうひとつ面白いのは、継体天皇の前に丹波にいた仲哀天皇の子孫である倭彦命を迎えようとしたが、怖がって逃げたので、継体天皇がピンチヒッターになったとあります。ということは、応神天皇の子孫であることは皇位継承の条件で無かった、つまり、応神天皇が新王朝を立てたのでないことがわかります。

また、応神天皇が特別な大王だというような意識は、中世以降になって八幡神と同一視されて崇敬の対象になってから生まれたもので、記紀ではそれほど特別な王者として扱っていません。

それに、魏志倭人伝を見ても、朝鮮半島南部は、「ただ囚徒・奴碑の相聚(あいあつ)まれるがごとし」に対して、倭国は「その風俗は淫らならず」とされており倭国の方が先進地域でした。

また、崇神天皇の先祖については、先週「神武東征と建国記念日の科学的解釈」で書いたように、記紀は大和南西部の小領主で初代の神武天皇は日向からやってきたとしか書いておらず、日本の国王だったなどとそもそもしてません。

つまり、記紀を素直に読む限りは、神武天皇が創設した小王国の崇神天皇が大和や畿内を統一して成立し、仲哀天皇が列島を統一した日本国家は、その成立から一度も王朝交代を経験せず、独立と統一を保持してきたと希有な国だということはほぼ間違いないということです。

もちろん、途中段階でお妃が不倫したなどということが絶対無かったかと保証はよくしません。たとえば、鳥羽天皇の皇子とされる崇徳天皇が曾祖父に当たる白河天皇の子であることは、ほぼ異論がないところですし、どうも怪しいという例は、ヨーロッパの王室でもけっこうあります。しかし、一般人でも戸籍に実子とかいてあったら実子として扱うしかないと言うことと同じです。

(関連文献)

八幡 和郎
PHP研究所
2015-02-04






編集部より;この原稿は八幡和郎氏のFacebook投稿にご本人が加筆、アゴラに寄稿いただました。心より御礼申し上げます。