不倫は個人の問題であろうが、社会問題だろうが人を不幸にする行為である点では変わらない。不倫を社会問題とし、不倫の社会的市民権を広げたとしてもそれで人が幸福になるわけではない(人は一人では存在しない。関係存在だ。だから、人の行為は等しく社会問題だ)。
人は愛し、愛されたいと願う存在だ。ビタミンが欠乏すれば様々な症状が出てくるように、愛というビタミンが十分ではなかったら、やはり多くの病が出てくる。歌謡曲の歌詞を指摘するまでもなく、愛は最大のテーマであり、愛に関わった問題で多くの人は悩み、苦しんできた。愛を求めるのは若い女性と男性の特権ではない。頑強で不細工な男性も愛を求めている。それほど愛が慕わしいのだ。
空気がなければ酸欠で人は直ぐ亡くなるように、愛がなければ人は死んでしまうし、実際、多くの人は死んでいる。「生きているのは名ばかりで、実は死んでいる」といったイエスの言葉に当てはまる人が何と多いことだろうか。
不倫はその愛を裏切る行為だ。如何に利己的遺伝子を持ち出して不倫を正当化したとしても、人間の尊厳を動物の世界と同列に置いても、やはり不倫は愛への裏切り行為だ。そして不倫する人はそれを良く知っている。知らずに不倫をする人は少ないだろう。
「不倫」という言葉にその意味合いが刻み込まれている。「不倫」が昔から良くない行為であることを人は教えられなくても知っていたわけだ。その意味で、不倫は21世紀の現代的テーマではなく、人類が始まって以来の昔からの問題だ。
フロイト精神分析の用語で説明するとすれば、人は「快楽原則」に従って行為するが、同時に、必要ならば、「現実原則」に従うことを良しとする存在だ。もう少し説明すれば、快楽を求めるが、現実の状況がそれを容認しない場合、快楽を後回しにし、現実が求める行為を優先する。ここに人の尊厳性も生まれてくる。
人は考える葦だ。自身の行為、発言が家庭で、会社で、共同体でどのように受け入れられるかを考える。自身が愛する人を傷つけると判断すれば、厳しい言葉を控える。関係存在の人間は他者との共存なくしては生きていけないから、「現実原則」に従って不倫を回避する。
「快感原則」を抑制し、「現実原則」を優先することは不自然であり、人間の自由を制限すると主張する人が出てくるかもしれない。しかし、「快感原則」を抑えることは社会からの圧力に屈することでも、ましてや権力側からの弾圧でもない。知性であり、宗教的に表現すれば禁欲だ。肉体の成長に栄養素が必要であるように、精神的成長にも禁欲は不可決だ。
好きなことだけをしていたならば、人間の精神は成長しない。ある時は強いられたとしてもしなければならない仕事、課題が出てくるものだ。その際、必要なものは禁欲であり、規律と目的観だ。はっきりとした目的観と価値観がない場合、規律は緩み、禁欲に意味を見いだせなくなる。
価値の相対主義が席巻し、ニヒリズムが現代人の中で広がっている。既成の価値観を信頼できず、全てのことに価値を見出せなく、理想も人生の目的もない精神世界だ。フリードリヒ・ニーチェは「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言したが、21世紀を迎えた今日、その虚無主義はいよいよわれわれの総身を冒してきている。
その一方、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間では認識不可能という実用的な不可知論(Agnosticism)が次第に広がり、結局は何も信じることができず、その時の流れに従っていく世界は、ニーチェがいう“受動的ニヒリズム”の世界にどこか似ている。
不倫を社会問題と見なし、一種の社会契約論的なやり方で規制できるという主張は余りにも皮相的だ。その背後にニヒリズムの匂いがする。
繰り返しになるが、不倫は誰をも幸せにしない。私たちの中に深く刻み込まれた良心はそれを良く知っている。良心の声を侮ってはならない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年4月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。