G7外相会合で来日したケリー国防長官が、ホワイトハウス高官としては初めて広島を訪れ、献花をした。5月に来日するオバマ大統領も広島を訪問する意向と伝えられるが、実現は困難だ。アメリカ人の過半数が、いまだに「原爆投下は必要だった」と信じているからだ。
米軍の公式見解では、原爆を投下しなかったら日本の降伏が遅れ、1945年11月には本土上陸作戦が予定されていた。100万人以上の米軍との本土決戦になったら日米に原爆以上の犠牲が出たので、原爆は多くの人命を救ったということになっている。
しかし『「聖断」の終戦史』などの最近の研究によれば、45年6月8日に御前会議で本土決戦の方針が確認された翌日に、梅津参謀総長は天皇に異例の上奏を行ない、「支那派遣軍と関東軍が壊滅状態だ」と報告した。
本土決戦の要員としては「支那に温存している200万の精鋭部隊」が想定されていたが、それが存在しないのでは、国内の留守部隊だけではとても戦えない。これをあえて本土決戦の決定直後に上奏した梅津の意図は「本土決戦は不可能だ」という陸軍の判断を暗に伝えるものだったと思われる。
天皇はこの上奏を重くみて木戸内大臣に情報の収集を命じ、6月22日にあらためて御前会議を開いて「戦争の指導に就ては先に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」と、政府首脳や大本営に申し渡した。
「従来の観念に囚はるゝことなく」というのは、本土決戦という従来の方針を見直せということで、これには軍も反対しなかった。つまり実質的な「聖断」は6月に下っていたのだが、これは重大な方針転換なので秘密裏に終戦工作が行なわれていた。
その最中の7月26日に、ポツダム宣言が出たことが問題を複雑にした。軍の想定した「停戦」という形の敗戦ではなく、「降伏」を要求されたため、「国体の護持」をめぐって不毛な論争が始まり、貴重な時間が空費された。
だから原爆が終戦を早めたのではなく、むしろ終戦工作に手間どって終戦の決定が8月まで遅れた間に原爆が投下されたのだ。8月10日の御前会議における天皇の「聖断」は、数の上ではぎりぎりの決断だったが、内容は既定方針の確認であり、まして本土決戦は物理的に不可能だった。
だから原爆投下には戦略的な意味がなく、アイゼンハワーやマッカーサーやニミッツなど陸海軍の首脳も反対していた。しかしルーズベルトの急死で副大統領から大統領になったトルーマンは、国家の指導者としての地位を誇示して1948年の大統領選挙に勝つため、原爆投下を命じたのだ。
日本は韓国や中国のように幼稚な国ではないので、今さら70年前の事件に謝罪を求める必要はないが、それが国際法違反の非戦闘員虐殺だったことをアメリカが認めるよう求めるべきだ。これは大江健三郎などのいう「人類の罪」ではなくアメリカの罪であり、日本人はそれを許しても、忘れてはいけない。