「死ぬ為の法整備」は可能か?

松本 徹三

4月17日付の「難しくなった政治の舵取り」と題する私のアゴラの記事に対して、Tamuraさんという方から次のようなコメントを頂いた。

「改革」で思考停止。これをいつまで続けるつもりだろう。呆れる。

やらなきゃいけない事は「減老」。死生観・人生観の転換。死ぬ為の法整備。

今すぐにでもやらなければならないし、すぐに出来る「改革」はまだ山程あるので、前半には異議がある(呆れられては困る)が、これについての議論はまたの機会に譲りたい。しかし、後半については、重い課題ながらも、Tamuraさんの言う通り、いつまでも逃げ続けていてよい問題とも思えないので、今日は勇気を奮ってこの事について論じたい。

このまま老人が増え続ける事を放置はできない。

医療技術の発達によって人間の寿命はどんどん伸び、その一方で出生率は低下している。このままでは年金制度が破綻するのは時間の問題であり、現時点での負担増に喘ぐ一方で、将来は恩恵にあずかれなくなる恐れのある「働く世代」が、遂にブチ切れる事態にならないとも限らない。そうなれば深刻な社会不安をもたらすから、今や「転ばぬ先の杖」を真剣に考えなければならぬ時期に来ていると思う。

「老人(高齢者)」の定義は定かではないが、仮に60歳以上をそう呼ぶとすると、これに当てはまる人は下記の4つのカテゴリーに大別されると思う。

  1. 働いて税金と保険料を払っている人達。
  2. 働けるのに働かず、税金も保険料も払わず、年金で生活している人達。
  3. 病気で働けないので、当然働いておらず、年金で生活している人達。
  4. 働けない上に、誰かに介護して貰わないと、一人では生活できない人達。

私は、これまでもずっと「高齢者の概念をデノミして、75歳までは高齢者とはみなさず、少しでもよいから働かなければ、年金は貰えないようにすべき」という考えを提唱してきたし、76歳の現在も、腰痛に耐えながら自ら頻繁に海外に出向き、日本国に税金と保険料を払い続けてきている。

厳しいようだが、今のような人口構成率となってしまった日本に住む限りは、65歳や70歳程度で「悠々自適」などという贅沢な境遇を求めるのは無理だと、全ての人が覚悟すべきだ。私よりずっと年少(団塊世代)なのに「まあ、我々の世代はぎりぎり逃げ切りセーフだね」と言っている人などを見ると、本気で怒りを感じる。自分達は逃げて、子供や孫に負担を残すとは、何たる腐った根性かと思う。

それだけではない。「老人支配を許す終身雇用や年功序列といった制度や慣行には大鉈を振るい、定年はむしろ55歳程度にまで下げるべきだし、上位の決定権限者には身分保障は与えず、自らの実力のみを武器に、身体を張って事業の成功に賭ける人のみを起用すべきだ」とも、私は言ってきている。外国企業の若い経営者と競うには、現在の地位を守るのに汲々とし、古いやり方を踏襲しているだけの今の日本の高齢者では、とても無理だと思うからだ。

働けない人達の問題

しかし、これだけでは、上記の2)のカテゴリーをなくすだけで、3)と4)のカテゴリーは手付かずで残る。

病気などの為に働けない人は、本人の意思ではどうにもならないのだから、責めてはいけない。介護を受けている人などは、内心では恐らく「申し訳ない」という気持ちでいたたまれない程だろうから、そうでない人以上に同情しなければならない。

「アルツハイマーになったり、寝たきりになったり、介護を受けなければ生活出来なくなったりするのは嫌だから、むしろどこかでコロリと死にたい」と思っている人は、私の世代ではたくさんいる。しかし、現実には、この希望はそう簡単には実現しない。

SF映画などでは、食糧難に追い詰められた未来の政府が「尊厳死制度」を作って、「一定の年齢に達した希望者はこの制度を利用する」という有様が描かれている。希望者は「お別れの会」で家族や友人の祝福を受けた後に、美しい音楽と芳香に包まれながら、安らかに永遠の眠りにつくのだ。しかし、現実には、こんな制度を誰かが起案したら、多くの人達に袋叩きにされるだろう。

確たる理由はないと思うのだが、人間は「死」というものを人工的に制御する事を本能的に恐れ、嫌っているようだ。これは「生」についてもある程度同様で、それ故に「堕胎」の是非にも議論があるのだろう。Tamuraさんは「死生観、人生観の転換」と言われるが、個々の人が転換しても何にもならない。社会全体のコンセンサスが変わり、これに基づいた国の政策をサポートするようにならねばならない。これには膨大な時間がかかるだろうし、相当の工夫も必要だ。

国に出来る事

国は一定の「富(経済価値)」を創り出し、これを国民に分配している。現在は殆ど国が資本主義経済をサポートしているので、「富」を作り出す方法は比較的自由で、うまくこれを創り出した人がその殆どを使う事が出来るようになっている。言うなれば「弱肉強食」もある程度認めているという事なのだが、そうしないと「富」の創造自体が困難となり、国民経済全体が縮小してしまうのを「社会主義経済の失敗」を通じて学んだからだ。

作り出された「富」の一部を国民全体に何等かの形で分配するのが「税」であり「社会保障制度」である。これをどの程度の規模でやるかが「大きい政府か、小さい政府か」の議論であり、民主主義体制下では、国民に選挙で選ばれた政府がそれぞれにこれを決めている。

現時点で世界で最も高齢化が進んでしまった日本は、「富」の「創造」と「分配」の比率を考える以前に、「分配」の絶対量が過大になってきたという問題を抱えている。「分配される側」の内訳を精査して、合理化する事も必要だ。「福祉という観点からの意味がない」或いは「個々の国民がかならずしも希望してない」分配がないかどうかを、慎重にチェックする必要がある。

「脳死状態になった人達」や「回復が絶対に不可能と判定された人達」への「延命医療」の提供等は、まさにこれに当たると思うし、こういう事を極力やめさせるのは、最低限必要な第一歩だと思う。

今の日本では、自ら親の介護で心身ともに疲れ果てた経験を持ち、それ故に「自分の子供達には同じ経験をさせたくない」と考える人達は、相当数に上ると思われる。私は幸いにして「親の介護」で苦労をした経験がないが、どんな場合でも配偶者や子供達に過大な負担はかけたくないので、「延命医療を謝絶するメモ」は既に書いてある。

しかし、実際のケースでは「患者の遺族にクレームをかけられたくない」医療機関は、家族にしつこく確認を求めてくるだろうし、それぞれの医療措置についてその当否を判断するのが難しい家族も、こういう「曖昧な内容の当人のメモ」だけだと、結局は「無駄な延命医療」を受け入れる事になってしまうケースが多いのではないだろうか?

東京に「日本尊厳死協会」という一般財団法人があり、私も登録しようと思ったが、終身会費が7万円もするのに、やってくれるのは、別に法的効果があるわけでもない「証書」の発行程度の様だったので、入会手続きをとるまでには至らなかった。セコい話ではあるが、もし会費が2万円程度だったら入会していたと思うし、そういう人は結構多いのではないだろうか?

国が直接こういう団体を設立するのは抵抗があるかもしれないが、こういう団体をNPO法人と認定し、相応の「支援」と、出来れば「法的な権威付け」を行って、誰でもが加入できる「より意味のある協会」に育てていく様にすればどうだろうか? 具体的には、個々の医療行為の効果などを精査して、項目毎に本人の意思を事前に登録できるようにする等、取り組むべき課題は結構多いと思う。