(上より続く)
■「9条改正反対」が増えたのは安倍政権のおかげ
朝日新聞は5月3日付の一面で〈9条 改正反対68%〉と報じ、世論調査の分析をした7面では〈憲法観 強まる平和志向〉〈高まる平和志向と安倍内閣への厳しい視線〉と報じている。
仮に朝日らの言うような「政権と密接な巨大組織の蠢動により社会の右傾化が進んでいる」実態があるなら、このような調査結果は出ないのではないか。むしろ日本会議が望む結果とは逆行しているのであり、仮にその日本会議的方向を「右傾化」というのなら現状はまだまだ「左傾化」していると評すべきだろう。
また、毎日新聞が報じた改憲派、護憲派のそれぞれの署名活動の成果も「むしろ社会は左傾している」ことを物語っている。
昨年から日本共産党を中心とする安保法制反対派は「戦争法反対署名 2000万運動」を展開し、今年5月3日の憲法記念日までに目標値には達しなかったものの、1200万筆を集めたという。
一方、日本会議を中心とする改憲派も「1000万署名」を目標に活動を行ってきたが、5月12日までの成果は700万筆に留まった。
いずれにしてもなかなかの実績だとは思うが、500万筆の差は大きい。署名数がそのまま潜在的な改憲派・護憲派の人数を示すのではないものの、戦争法に反対する人々のほうが改憲派よりも切迫感、危機感を感じているということは言えるだろう。
■鬱屈した状態が続く
何より今、護憲派・改憲派双方が考えるべきは、なぜここにきて9条改正反対派が増えたのかという点だ。朝日新聞は「平和志向が強まった」としたいようだが、そうではない。この数字が増加したのは安倍政権のおかげなのだ。
朝日新聞も解説しているように、安保法制に賛成の人でも「9条改憲に反対」という人は一定数いる。朝日世論調査によると、安保法制賛成の34%のうち、9条を「変えないほうがよい」としている人は35%。この人たちが「9条改正反対派」の数字を押し上げている。なぜか。
「もうそろそろ憲法(9条)は変えてもいいんじゃないかと思っていたけれど、安保法制が通ったから改憲なしでここまではOKってことになった。それなのに、さらに改憲する必要があるんですか?」
安保法制が成立し「改憲しなくてもここまではできます」という法律が通れば、あえて改憲する必要性を感じない人が出てくるのは当然のことだ。9条改正反対派が増えたのは、朝日新聞その他が「立憲主義に反している」と言い立てたからではない。安倍政権の安保法制の影響だ。
安倍政権支持・安保法制支持が多いとみられる日本会議的な立場の改憲勢力は、安保法制が成立したことによって、改憲の必要性を世間に訴える論理を一つ失ったことになる。
国際政治学者の添谷芳秀氏は『安全保障を問い直す 九条―安保体制を超えて』でこう述べている。
〈今回の「平和安全法制」により憲法第九条を変えずに集団的自衛権の行使が可能になったことで、今後第9条改正の理由は、少なくとも論理的にはかなり低下したはずである〉
〈(そのため、安倍首相は)憲法9条の改正を語らなくなり、合意可能な条項から始める新たな改憲議論に軌道修正した。その結果、憲法改正の道義性と論理は混沌とし、改憲プロセスは混迷を深めることになるだろう〉
実はこれは、改憲・護憲双方にとって由々しき事態なのである。改憲派と護憲派が様式美のような非難合戦をやっている間に、戦後レジームの正体たる「9条下での安保体制」は強化されていく。安倍総理はもちろん、日本会議の目標とする改憲からも遠のいていく。
朝日や護憲派は金科玉条のごとく崇める9条さえ守れればいいのかもしれないが、9条がある限り、米軍基地が沖縄、ひいては日本から撤退することはほぼありえない。彼らの目指す非武装中立どころか対米自立、武装中立すらできない。
双方が不満を抱えながらいやいや現状に甘んじ、敵対勢力を批判しあうしかないという鬱屈した状況が、今後も続いていくことになるのだ。まさに「9条下での安保体制」は護憲派と改憲派によって温存されることになる。
■「悪魔的」「気味が悪い」
ところで、朝日新聞『Journalism』・神奈川新聞の田崎記者の記事に気になるくだりがある。
昨年8月に行なわれた櫻井よしこ氏の広島での講演の様子を記事にしたところ、読者から「(改憲派が)こんなことをやっているなんて」「気持ち悪い」という反応があった一方、「あんな講演内容を紹介して共鳴する人が出てきたらどうするんだ」という指摘を受けたという。
そして10月に日本会議の講演会に参加したところ、君が代の大合唱に続いてケント・ギルバート氏が登壇し、「日本国憲法はおかしい」「GHQが押し付けた」と話すと聴衆は拍手喝采。会場に足を運んだ参加者に話を聞くと「神奈川新聞の記事を読んで日本会議に興味を持って来てみたら、大満足だった」と言われて「寒気がした」のだという。
それでも、と記者は言う。
〈(現場から見えてきたのは)「日本会議」は決して悪魔的な人々の集団ではないということだ〉
〈異論を「気味が悪い」と切り捨て批判したりすることで、気持ちよくなっている場合ではない〉
さすがは昨年、「偏ってますが、何か」と不偏不党を捨てる宣言をした神奈川新聞の記者だが、驚くのはこんなことを改めて明言しなければならないほど、右派を「悪魔視」していたということだ。
■憲法は魔法の言葉ではない
改憲派ならずとも、憲法9条を経典のように扱い、もはや信仰の域に達している人々を見ると絶句するほかない。「憲法に書かれているから平和なのであって、その文字が消えたら平和も失われる」とするような、憲法を魔法か何かと勘違いしたような扱いには、それこそ寒気がする。「気味が悪い」からだ。
一方で改憲派にもこのところ疑問を抱かざるを得ないような感覚が広がっているようだ。「憲法に個人主義、平和主義を書き込んだから日本人はダメになった」「家族や伝統について憲法に書き込めば、日本人は家族や伝統を大事にするはずだ」といったものだ。私は改憲派だが、これにも若干の寒気を覚える。
これでは教条的護憲派の全く裏返しである。憲法に書いたからと言って、日本人がただそれだけで変わるわけではない。改憲派がよく言っていることではないか。「憲法に平和と書いたからと言って、日本や世界が平和になるわけではない」と。
憲法は魔法の言葉でもなければ睡眠術の暗示でもない。何より、このような物言いでは「政治思想を持たない大半の一般国民」を改憲に向かわせることは不可能だ。これも護憲派を見ればわかるはずだ。
改憲派も護憲派と同じ「空想的憲法観」に陥らないよう、常に自省が必要だ。「人のふり見てわがふり直せ」とは、先人はよく言ったものである。(終わり)
梶井彩子
ライターとして雑誌などに寄稿。
@ayako_kajii