『小学』の中に、次の范忠宣公(はんちゅうせんこう)の戒めの言葉があります--爾曹(なんぢがともがら)但(ただ)常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心もて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患(うれ)へず。
ある種の性かもしれませんが人間とは常に、自分を責めるに寛大過ぎて自分を褒めるに寛容過ぎる、というところが有り勝ちです。本来は己に厳しく人にある意味優しくするのが、正しい生き方だということです。
之は極々当たり前の話ですが、中々そう出来る人なき難しい話です。己に寛容で人に対して厳格というのが、これまでの人間社会の一般的風潮でありましょう。その中で「聖賢」と呼ばれるような人物は、そうした境地を解脱して人を利するところまで行くというわけです。之はもう修養を積む以外にない道だと思います。
ではそれが偉人に限ったものかと言えば、必ずしもそうではないように思います。その手本として一つには、自分よりも子供をと常に、ある種の犠牲的精神を発揮する母親に見出せましょう。
勿論、現代社会にあっては之だけ虐待が広がっているわけですから、そうでないケースも当然あります。但し母親というものは本来、上記した精神的要素を有するもので、それ故そこに範を求められると思います。
例えば、他人の子供がぴいぴいぴいぴいと泣いたり喚いたりしている状況に遭遇したと仮定します。その時子育て経験の有る夫婦は基本、頭にくることなく理解を示すことでしょう。逆に子育て経験の無い夫婦の多くは実は、それを見て直ぐに「ウルサイなぁ」というふうな感じになってしまうものです。
自ら子供を育てることによって、ある種の寛容や忍耐あるいは自己犠牲といったものが、養われ行くわけです。子を持たない人がそうした類を身に付けようとしたらば、3~4倍の努力が必要とされましょう。
『徒然草』の中にも「恩愛の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ」という言葉があります。恩愛の情とは「子持ちてこそ」出て来たりするものです。
あるいは孟子の言う「惻隠の情」、つまり「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち・心があります。此の惻隠の情についても必ずしもそうではないかもしれませんが、どちらかと言うと子供を持っている方が強いように私には思われます。
上記の通り、子を授かり育てると様々修養されてくる部分があります。子供がいないのであれば何倍もの修養を積み重ねないと、「聖賢」には中々近づいては行けません。
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