セブン&アイHD会長だった鈴木敏文氏がお家騒動で逐われた事件は、鈴木氏が息子を後継者に望んでいるのでないかと創業家の伊藤一族から疑われた結果だと解説する人がいる。
真相は藪の中だが、実力社長と創業家の関係はいつも難しいし、実力社長が世襲を図ろうとすれば、そこに暗闘が発生する。だいたいは、どっちも、相手を完全排除しようとしないことが多いのだが、思惑のずれからどちらかが逐われるのだが、そういう事件は戦国時代にもよくあったのだ。
足利義昭は信長を最初から軽んじ、織田信長は義昭をいずれは追放するつもりだったと見る人が多いが、間違いだ。
上洛から二年後に姉川の戦いがあったが、このとき義昭は信長方である(1570年)。
この年の「元亀元年志賀の陣」に、義昭と信長は、松永久秀とともに三好三人衆を討つため摂津に一緒に出陣した。ここでの対立軸は、義昭・信長・三好本家・松永久秀連合と、阿波公方・三好三人衆・本願寺連合である。
さらに、延暦寺・浅井・朝倉が三好三人衆側につき、困った信長は、義昭や朝廷に泣き込んで和平の仲介をしてもらった。ところが、窮地を脱した信長は翌年には態勢を立て直して、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたので、面子を丸つぶしにされたのが義昭だ。
そこで、義昭は信玄に上洛を勧める書状を出したが京都に織田軍も武田軍もいる状況を望んだだけで、信長追放ではない。しかし、10月になって、信玄が甲斐を出陣して德川領に本格侵入する。ここで信長は三方ヶ原の戦いに援軍を出して信玄を敵に回してしまう(1572年)。
こうして、朝倉・浅井・本願寺・武田・毛利が結束したのを見て、義昭は宇治槙島城にこもって反信長に立ち上がったのだが、味方はなく、信長軍に蹴散らされて河内に退去した。これを「室町幕府の滅亡」というが、そのあとも信長は義昭の京都復帰を望んだが、決裂したのは、義昭が信長に人質を要求したからだ(1573年)。
上洛したときに、義昭は信長に管領や副将軍を申し出た。官職も含めて織田家の主君である斯波氏の後継者という位置づけを義昭なりに考え出したのである。
それを、信長が謝絶したのは、本拠地を離れることや儀式に付き合うのを嫌ったからだ。信長がめざしていたのは、同じ平家である鎌倉幕府の北条氏のようなものだ。このころ、小田原の北条氏は、古河公方を名目的な盟主として維持し続けていたから、モデルが現実に関東にあったのである。問題は、源氏の長者としての義昭が満足できなかっただけだ。
そして、北条モデルが破綻したので、信長は同じ平氏でも平清盛のモデルに移行した。正親町天皇、あるいは皇太子の誠仁親王との連携を図り、大納言任官をきっかけに右大臣まで駆け足で上った。
源氏の足利氏に代わるのは、平氏であり、源氏とは違う正統性を持っていると理論構築し、源平の戦いから四百年を経て平氏の天下が戻ったという理屈で世論を納得させようとした。
一方、備後鞆に移った義昭は公方様とよばれ続け、豊臣秀吉の求めに応じて京都に復帰し、足利義満と同じ准三后となり、秀吉が謁見などを行うとき、摂関家や法親王などとともに、上座の脇に列するという待遇を受けて秀吉と同じ年に死んだ。