理想主義者バラク・オバマの広島訪問 --- 鳥羽 和久

オバマ氏のこれまでの大統領としての手腕や、その政策の評価については、さまざまな意見があるでしょう。実際に、オバマ氏は何もしなかった、できなかった、そう批判する人たちも大勢います。しかし私は、為政者が何もしない、できないということが、民衆にとって決して不幸をもたらすとは限らない、むしろ為政者が何もしないのは美徳になりえるということを、これまでの歴史でいくつも例を挙げることができるのではないか、そんなことも考えるのです。

オバマ氏は きっと大統領の座を退いたのちに、本来の彼の気質に基づいた、もっと普段着のままの、草の根の活動をしていくであろうと推測します。そのころになって、大統領時代の彼が「何もしなかった」のは実は大変なことで、それが多くの人の幸福の一助になっていたことが明らかになる、そんな未来を想像したくなる、私にとって彼はそういう人物です。

オバマ氏が今回広島を訪問したことについても、さまざまな意見があります。そこに大きな意義をくみ取るべきではないとする慎重な意見も多く見受けられます。しかし私は、今回のオバマ氏の広島訪問は、2009年のプラハ演説において「核なき世界」を提唱した彼が、自身が任期中に果たしておかなければならない最後の仕事として、強い意志と決断に基づいて行われたものであると推測します。この私の推測は、オバマ氏が広島で話した演説の一文一文を、眠たい目をこすりながら吟味しているうちに、確信に近いものとなりました。

オバマ氏はこの演説の中で、 これまで米国で繰り返し議論されてきた原爆投下の正当性についての判断を避けています。日本へ謝罪の言葉も口にしていません。このことを残念だとする論調も各方面で見受けられます。しかし、これに関連して、被爆者の坪井直さんがAFPのインタビューの中でこう答えています。

「お詫びをせよとか、われわれは関係ない。(オバマ大統領が)この広島へ来て、資料館で見てもらう、こういうすごいことが起こったんだ」

原爆投下の正当性や、日本へのお詫び、こういったことは被爆した当事者にとっては関係のないこと。自明とも思えるそのことが、簡単に看過されて感情的な議論が先走る。そういった国家や組織を主語にした語りが、いかに人を蹂躙してきたか、坪井さんの「われわれには関係ない」という言葉には、そういったものに対する怒りを感じ取ることができます。

仮にオバマ氏が謝罪をしたとして何を生み出すのでしょう。そのとき彼は何を代表しており、そして何に対する謝罪をしているのでしょう。米国では「米国の恥さらしだ。売国だ」と右派が騒ぐでしょう。オバマ氏は保身のために謝罪しなかったという論調を見かけましたが、そうではなく、オバマ氏は謝罪以上に必要なことをするために広島にやってきた。私はそう信じたいと思います。

オバマ氏は、演説の中で「広島を際立たせるのは戦争の事実そのものではありません。」と前置きしたあと、次のように言います。

この空に立ち上った(原子爆弾の)キノコ雲のイメージのなかで、私たちは人間性の中にある最も根本的な矛盾を突きつけられます。それは、私たちを人間たらしめているもの、 私たちの考えや想像力、言語、道具をつくる能力、自然を自らと区別し自らの意思のために変化させる能力、といったものこそが、とてつもない破壊能力を私たち自身にもたらすということです。

物質的な進歩または社会的革新によって、私たちは何度この真実が見えなくなるのでしょうか。どれだけ容易く、私たちは、より高い大義の名の下に、暴力を正当化してきたでしょうか。あらゆる偉大な宗教が愛、平和、公正への道を約束しています。しかし、いかなる宗教 も、信仰が殺戮の許可証だと主張する信者から免れることはできていません。

国家は人々を犠牲と協力で結びつける物語を伝え、顕著な業績を喧伝しながら台頭します。しかし、それらの同じ物語は、幾度となく異なる人々を抑圧し、その人間性を奪うために使われてきました。(和訳は朝日新聞の記事をもとに、一部を改めました。)

オバマ大統領がここで述べていることを、何度も読み返していただきたいと思うのです。戦争というものについて真剣に検証を重ねてきた人たちにとって、オバマ 氏が述べている内容に目新しいことはないかもしれません。しかし、世界の警察として、世界中に「正義」という大義を振りかざしてきた大国アメリカの大統領が、私たちの人間性そのものに潜む矛盾について、そして宗教や国家がもたらす物語がいかに人々を抑圧してきたかについて、これほど明白に語るということに、私はひとつの希望を感じずにはおれません。

安倍首相が「核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも、絶え間なく努力を積み重ねていくことが、いまを生きる私たちの責任であります」と述べました。オバマ大統領のプラハ演説を思い起こさせる強い表現で、核廃絶について言及したことは、私自身、歓迎すべきことと感じています。

ただし、オバマ氏と安倍氏では、向いている方向が全く異なると思ったことも事実で、安倍氏が話した「71年前、広島そして長崎ではたった1発の原子爆弾によって、何の罪もないたくさんの市井の人々が、そして子どもたちが無残にも犠牲となりました。一人一人にそれぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみ締めるとき、ただただ断腸の念を禁じ得ません」という内容は 言わば誰でも話せることです。

かみ締めているだけでは、決して次の戦争は防げない、むしろかみ締めているだけでは、次の戦争をおびき寄せてしまうかもしれない。一方で、オバマ氏は、私たちが思索すること、想像力をはたらかせることといった、人間の根幹にかかわることが、そのまま人間の破壊に関わっている、そのことについて話した。その差はあまりに大きいのです。

流行語にもなった“Yes, we can.”は、理想主義者としてのオバマ氏を体現する言葉です。この言葉は、あらゆる困難な事柄について、「理想としてはわかるけど、現実的に無理でしょ」と口走る、現実派を装った、真の保守に対抗するためのおまじないとして、オバマ氏が大統領の座を退いた後も、拳の中にいつも携えておこうと思うのです。

鳥羽 和久 株式会社寺子屋ネット福岡 代表取締役社長