正義の怒りの中にある正義でない怒り --- 天野 信夫

私たちが、政府や政治家、役所や企業の不正や誤りを見つけそれを正そうとすることは、とても必要で大事なことです。その不正や誤りに気付かない私たちに、それを気付かせるのは野党やマスコミの皆さんの務めでもあります。やがてひとつの運動が巻き起こり、不正や誤りを糾弾する国民や市民の怒りの声が結集されます。結果として、その怒りの声が是正の成果に反映されれば、正義が叶えられた、ということになります。 

悪事への徹底的な糾弾や究明、悪人への徹底的な追及や懲らしめは必要です。その一方で、正義の怒りの声の中に、私はやや戸惑いを感じることがあります。その人が批判されるのはある意味仕方ないと思う一方、確かに彼は悪いことをしたけどそこまで糾弾されるのはどうなのか、と思ってしまうのです。やや中途半端な気持ちになります。私がそういう気持ちになる理由を考えてみました。

政治家や高級官僚、大企業の重役や著名人、こうした方たちは、高給取りで運転手付きの車に乗って、豪邸に住んで別荘も持って、毎日美味いものを食べてぬくぬく暮らしている、私たち庶民は普通そう思っています。そういう人が不正を働けば、「普段、うまいことやっているくせに」、と私たちが怒るのは当然の人間の心理です。要するに、この怒りの中に混じっているのは、普段うまいことやっている人間に対するある種のやっかみです。野党は批判を煽る時、私たちのこのやっかみをそっと刺激します。

やっかみの対象はストレス解消の対象です。前は偉くて強かったのに、今はヘマして弱くなったので余計に叩きたくなります。怒りの声は正義の鉄槌と当の本人は固く信じていますから、自らの怒りの中のこのやっかみの存在はあまり認識できません。正義の怒りの声の中には正義でない怒りも混じっている、私が中途半端な気持ちになる理由はこれだと思います。

「セコイ」小悪党をみんなで血祭りに上げているうちに、その陰で大悪党がほくそ笑んでいることだってあるかもしれません。苦笑いで何でも許されてしまう寛容社会も困りますが、他人をとことん攻撃しなければ安心できない不寛容社会、次は自分の番かと、みんなが辺りを見回してビクビクして萎縮する不安社会も困ります。中間社会はないので、私の気持ちはいつも中途半端です。

天野 信夫   無職(元中学教師)