小田原征伐のとき、豊臣秀吉は徳川家康と「連れ小便」しながら関東移封を申し渡した。この場面の描き方はドラマの制作者が工夫を凝らすところだが、「真田丸」では秀吉が「関東はすべてくれてやる」といい、家康はいったん喜ぶが、ついで「三河などはもう要いらんじゃろ」といわれて呆然としていた。
本当に家康は、三河を離れることを悲しんだのか?ドラマによっては、それを告げたところ家臣たちは「そんな無茶な」といい、家康は「いまは我慢じゃ」と隠忍自重を説くということになる。
しかし、本当は家康は関東移封を喜び、家臣は悲しんでいたのだ。
家臣たちは兼業農家で親戚に武士でないものも多いのだから、高給サラリーマンにはなれるが、故郷と個人財産を失い親族と生き別れすることを意味した。
だが、それこそ家康にとっては大歓迎だった。口では「三河を失うことは悲しいがいたしかたない」といったかもしれないが、本音は違った。これで、家臣たちの兄のような存在から父親のようなものに昇格できたし、過去のしがらみにとらわれない人事も可能になったからだ。
筆頭家老格の酒井忠次はすでに隠居の身だったが、息子に与えられたのは三万石。新参者の井伊直政の四分の一である。しかも、この井伊直政の12万石という石高も高崎(はじめは箕輪)という要地を任せることもすべて秀吉から具体的な指示がされているから、家康は「仕方なしに」この抜擢人事をやっているといえたのである。
上杉景勝が越後から会津に移ったときには、わざわざ「武士は全員で移ること。百姓は一人たりとも連れて行くな」と豊臣政権から指示が出た。直江兼続がしたいことを石田三成らの口からいわせたのである。
これは、成長企業が本社を移したがるときも同じだ。そのことで、古参幹部は兼業農家ならそれを改称しなければならないし、そうでなくとも、古くからの個人的、仕事のうえを問わずすべてのしがらみを解消させられ、会社人間にならざるをえないからだ。
経営者にとっては好都合な話だ。とくに東京は会社人間の都だ。