もう、オリンピックはださいし、いらない

長坂 尚登

先日、日本のグラフィックデザイン界の重鎮の方の事務所にお邪魔し、コーヒー1杯で5時間も、いろんな話をしました。

その中で、東京五輪エンブレムの話に。
そこから、新国立競技場や、裏金疑惑の話にも。

そこでいろいろ話していて、自分の中でも整理がついたのですが、結局、エンブレムも新国立競技場も、そして裏金疑惑も、結局、そもそも日本人がオリンピックを求めていない、というのが根幹にあるのでは。

とあるコメンテーターがテレビでこんなことを言ってました

もし、本当に日本人がオリンピックを求めているなら、たった2億円でオリンピックが来るなら儲けもの、という話になるはず。

僕的に、ものすごく腑に落ちるコメントでした。

そのデザイナーと話したことは、散逸的だけどいくつかあって。

まず、もうオリンピックで日本はひとつにならない。

たぶん小さい頃に東京五輪を体感した、今、権力者であられる方々は、「もう一度、あの興奮を」という幻想をいだいているのだろうけど、残念ながら、それはない。 商店街のおばちゃんが、「昔はここも、ものすごい人だった」と言ってるのと同じ。

世界の人が、世界地図で見たら、東北と東京はすぐ近くかもしれないけど、東北復興のオリンピックって言われたって全然ピンと来ないし、全然アンダーコントロールではない。

もし、本当にそう思うなら、仙台、福島、広大な敷地のある陸前高田でやるというのであれば、まだしも気持ちがまとまったかもしれない。 けれども東京は、東北ではない。

そして、先進国が、というか円熟国というか停滞国というか、が2回もオリンピックの開催地として、立候補をするのは、とても大人気ない。 百歩ゆずって、アテネはまだわかる。 ロンドンも、東京も、大人げない。 まだやってないやりたい国に譲ればいいのに。

オリンピックがこれからの国の起爆剤になるのは、とてもよいことだと思う。 ある種の通過儀礼的な感じもする。 けれど、通過儀礼は2回もいらない。

そしてもう、僕たちは上から押し付けのように振ってくるものでは、興奮しない。
稚拙でも小さくても、自分たちで何かをつくる方がよっぽど気持ちが高まる。

一度、つくる楽しさや与える楽しさを経験してしまっては、与えられる楽しさなんて、全然比べ物にならない。

結局、 オリンピックいらないと思っている人が多いから、エンブレムでも、競技場でも、裏金疑惑でも、あんな「瑣末」なことで、毎回毎回、足踏みさせられることになっている。 まとまっていない証。

これから準備が進んで行くに連れて、もっともっと小さいことで、もっともっと停滞させられることが、どんどん出てくる。 公用車とか、別荘とか、ガリガリ君とか、そのくらいの話で。

1回めの招致から2回めの招致の課題は、「国民の意識の高まり」だと、どこかのニュースで見た気がする。 招致コンペではうまく高まっているように見えるようまとめたのだろうけど、残念ながら、全然高まってないし、まとまってないし、求めていない。

ましてや地方にいる身からすれば、「テレビの中」という意味で、どこでやっても変わらない。 むしろ、時差の関係で、見やすい時間の方がありがたい。

1964年東京五輪、その前の1940年に幻の東京五輪がありました。

今、NHKの朝の連ドラは、まさに東京、まさに1940年だけど、そこでさえ触れられない、幻の東京五輪。

NHKスペシャル – 3回目のオリンピックを前に – 愛知豊橋・長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/150101.html

東京五輪、本当にいりますか?

では。


愛知豊橋・長坂なおと のblog より

プロフィール
長坂尚登|1983年愛知県豊橋市生まれ。
地元の時習館高校卒業後、東京大進学、コンサルティング会社で働き、10年間東京で過ごす。2012年にUターンし、商店街マネージャーとして、豊橋のまちなかを奔走。2013年から内閣官房より地域活性化伝道師を拝命。
2015年商店街マネージャーを退職し、豊橋市議に立候補。新人トップ当選で、現職(無所属)フェイスブックページ