人間の価値ということでは、様々な偉人が色々な言い方をしています。例えば、アルベルト・アインシュタインは「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」と形容し、森信三先生であれば「いざ出処進退の問題となると、平生見えなかったその人の真価がむき出しになってくる」と言われています。
あるいは、安岡正篤先生は「人間の真価はなんでもない小事に現われる」というふうに言われ、河合栄治郎先生は「人間の真実の価値は、なさねばならぬことをきちんとするところにある」との言葉を残されています。
河合先生が述べられているように、要は「その人が大事な場面では、何らかの動きをするのか、依然として何もしないのかで人物がわかる」わけで、之に関し私もある意味同感です。私は1年前『何のために生まれてきたのか』というブログ冒頭で、戦国武将・島津義弘が残したとされる所謂「薩摩の教え」を御紹介しました。
それは、「一、何かに挑戦し、成功した者」「ニ、何かに挑戦し、失敗した者」「三、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者」「四、何もしなかった者」「五、何もせず批判だけしている者」を人間の順序とするものです。
島津公が挙げている通りの順番で正に、最低最悪なのが「何もせず批判だけしている者」です。一人前のことを言う人に限って、何もしない人は意外に多くいるよう感じます。人間の価値とは、何らか事が起こった時の行動にある、ということは間違いありません。
同じような意味では、『論語』の中にも「歳(とし)寒くして、然(しか)る後に松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)ることを知る」(子罕第九の二十九)とあります。孔子は「冬の厳しい寒さになって、初めて松や柏が枯れないことが分かる。人間もまた大事に遭遇してはじめて、その真価が分かる」と言っています。
あるいは『論語』の「為政第二の二十四」には、「義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり」という孔子の言もあります。正義のため・大義のため当然行うべきことと知りながら、それを実行しないのは人間的無価値の臆病者だということです。
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