薩摩・土佐でなく薩州・土州が普通だった

薩長同盟は、不思議にそれぞれは薩摩と長州と呼ばれ、薩州と長門とはほとんどいわない。私は滋賀県出身だが、昔は江州商人といったが、いまは近江商人というのが普通だ。

最近、「消えた都道府県名の謎」(イースト新書Q)という本を書いたが、そこで、旧国、藩、県の名前を扱ってきたが、そのへんもどうしてという人が多いので。まとめて説明しよう。

江戸時代の地名というのは、律令制や明治以降のように、正式に法令できまっていたのでないので、なにごとも慣習でしかない。すでに書いてきたように藩というものすらなかったのである。

だから、土佐藩というものは存在したことがなく、正式にはしいていえば松平左近衛少将御領知とかいうことになり、明治二年の版籍奉還後は高知藩が成立したが土佐藩といわれた時期はない。そして、高知藩は明治4年にはそのまま、高知県になったから、高知藩しら二年間だけの名称だし、会津に至っては、明治2年には斗南に移っていたから、政府直轄の若松県が存在しただけで、会津藩も若松藩も歴史上、存在したことはない。

しかし、俗称として、国名で呼ぶことはあったのだが、その場合には藩はつけなかったし、しかも、土佐と言うより中国風に土州というのが漢学が盛んな江戸時代には流行っていた。

だから、江州商人であり、宮本武州だったりするわけだ。江州商人が近江商人といわれるのが普通になったのは、平成になってからだと思う。 

群馬は上州・栃木は野州という

現在では土州などとはいわずに、土佐というのが普通だが、それでも、藩名については、長州、、紀州はあいかわらずだし、藩名でないが上州(群馬)、遠州もよく使われる。また、ややこしいのは、なんとか州という場合、頭文字が普通だが、栃木県は下州ではなく野州というのが普通だということもある。上とか下とか、前とか後とかがついてもそれは略して肥後も肥前も肥州というのが普通だが、例外もあるし、語呂によっては、近江を江州というように下の方の字を使うこともあるのだ。

そこで、本日は、まとめて、なんとか州という場合のいいかたを説明しておく。ただし、正式のものでないので、複数の呼び方が存在するのだが、詳しい説明は避ける。

まず、前後、上下がある場合には、普通はまとめて総州、越州、丹州、備州、筑州、肥州、豊州という。例外は上野、下野を上州、野州ということである。

その他は、いうとすれば、頭文字だが、下のほうを使うこともある。奥州、羽州、房州、豆州(伊豆)、濃州、勢州、江州、和州(大和)、泉州、雲州(出雲)、作州(美作)、芸州(安芸)、防州(周防)、予州(伊予)、隅州(大隅)だ。

このほか、加賀や伊賀は上下どちらもあるし、山城は山州、城州に加えて中国の長安付近の地名を使って雍州ということもある、

そのほかは、武州、常州、相州、甲州、信州、佐州、能州、飛州、若州、但州、駿州、三(参)州、尾州、志州、摂州、河州、播州、石州、長州、讃州、阿州、土州、薩州、対州、壱州ということでいい。

しかし、それにしても、歴史教科書などで、そういうことを教えず、薩摩藩とか長州藩とか無反省に使っているのはなぜだろうか。

そのくせ、推古天皇以前の天皇の諡号は後世のものだから、使わないとかいって、中国人が勝手に呼んだ倭王武とか卑弥呼とか日本では使われていなかった名前を使い、さらには、神武、崇神、応神、仁徳などは存在すらなかば否定して記述せず、大正末年まで歴代天皇に数えられていた神功皇后は架空にしてしまう歴史学者と文部科学省は国賊という言葉がぴったりで、いちど解体した方が良いくらい。

消えた都道府県名の謎 (イースト新書Q)

八幡和郎
イースト・プレス
2016-07-10