フランスの「ブルキニ」問題はヨーロッパでは当然ながら大変な話題になっている。日本ではどうなのかなと思ってYahoo Japanを覗いてみるとやはりもうすでに日本でも話題になっていた。
言うまでもないが、Yahoo Japanには「コメント」欄がある。もっとも元記事のネタによってはコメントの傾向が非常に偏っているような気がすることもあるので日本にいる時はさして気にもとめていなかったが、海外に出てからは特にヨーロッパネタに関しては「やっぱり日本人ならそう思うよね」と思えるような意見もあったりして、結構参考にさせていただいている。
今回のブルキニに関する記事のコメント欄も非常に興味深かった。私事なので詳細は省くが、筆者は個人的にフランスには何かと縁がありフランスへ行くことも多いので、この話題に関して「フランス人の言い分」なども含めて若干解説じみたことをさせていただきたいと思う。
恐らく筆者よりもフランス事情に詳しい日本人はゴマンといるはずだし、そもそも筆者は大学の教授先生でもなければフランス研究者といった肩書きがあるわけでもないのであまり偉そうなことを言える立場ではないのは重々承知している。それでも筆者でなければ誰も言わない、暗黙の了解として敢えて触れらないことを言わせていただきたい。
まず、フランス人はなぜ「ブルキニ」くらいのことでこんなにムキになって警察による取り締まりまでしているのか、という点が恐らく一般の日本人が最初にひっかかる点だろう。(少なくともヤフーのコメントを見る限りそう思いましたので)
この答えは単純だ。フランスにはLaïcitéというなんとも翻訳しがたい原則がある。といっても日本語に訳しにくいのはヨーロッパ語の言葉なら全てそうだが、そういうことではなくLaïcitéは英語にも訳しにくいのだ。強いて訳すなら英語ではSecularism、日本語では世俗主義ということになるけれども、フランスのLaïcitéは単なるSecularismでも世俗主義ではない。むしろ政教分離原則と言った方がより適切かもしれない。
つまり、 “La France est un pays laïque” (フランスという国はlaïqueだ)という文章は「フランスは世俗主義の国だ」というどこか享楽的な印象を与える和文に翻訳されるべきものではなくて、「フランスでは政教分離原則があり、従っておよそ公的な場面ではいかなる宗教活動といえどもことごとく慎まれなければならない」というかなり厳しいことを言っていると解されるべきなのである。
フランスでは隣国のベルギーなどとは違って公立の学校で宗教に関する教育をすることは厳しく禁止されているし、教師だけでなく生徒の側も学校にいる間は宗教的信条に基づく服装や身なりをすることは禁止されている。これはどの宗教を信じていようとフランスでフランス人として生活している全ての人に適用される原則なのだ。
なぜこんなことになったかというと、元々は従来のキリスト教を軸にする司祭階級などの頑強な保守派が教育などを通して反革命思想を植え付ける機会を共和主義陣営が制限しようとしたことに由来する。
そもそも公教育の基礎をつくったのはナポレオンなので、ナポレオンがつくった学校でナポレオンのやろうとしたことに真っ向から反するようなことをするのはおかしいと考えるのはある意味当然である。(実はナポレオン自身は当時学校数に対して教員数が少なかったせいも聖職者にも許可制で教職につくことを許していたが、これはあくまで苦肉の策である)
むしろおかしいのはフランス以外の国の方であって、フランスのように革命を経ることなく革命後のフランスの制度だけを真似るという邪道を行ったせいで概念的には矛盾している「公教育を通しての宗教教育」が公然とまかり通るのだ。
日本でも公教育を実施したのは明治政府、つまり天皇なので公教育の中に「皇民化」政策が含まれていても国民に違和感を与えることはなかった。同様のことが他の全ての公教育後進国、つまりフランス以外の全ての国にもいえる。ヨーロッパも例外ではなく、ベルギーやイタリア、イギリス、アメリカなど未だに宗教教育が学校で公然と行なわれている地域も少なくない。
だからこそ、フランス人は自国が今でも革命の遺産であるLaïcitéを守っていることを非常に誇りに思っているし、その点こそがフランスを他の凡百のヨーロッパ諸国、もっと言えば科学技術とアメリカという巨大な弟分のおかげで「ヨーロッパ随一の先進国」とでも言わんばかりの顔をしていながら実はものすごく後進的な「宗教」やら “Royal Family” やらといった中世の悪しき風習を平気で公的場面に持ち込むあの憎きAngleterre (イギリス) から区別する、フランスの最も「かっこいい」部分のひとつだと考えるのがフランス的な愛国心である。
ところがそんなフランスを突然あのナポレオンさえ予想しなかった悲劇が襲ったのだ。 “Impossible n’est pas français” (「不可能」などという言葉はフランス語ではない) とナポレオンをして豪語せしめたフランス語に、未曾有の危機が生じているのである。それがイスラム教徒の急激な拡大と過激化だ。もはや現代のフランス語にはimpossibleが満ち溢れている。テロが起こる度にC’est pas possible! (なんてことだ!) という悲しき感嘆文が何度フランス人の口をついたことだろうか。
しかしこれは本当にフランス人が悪いのだろうか?ここで「フランスは過去の帝国主義政策のせいで中東やアフリカの移民を抱えることになったんだ。自業自得だ」と思われた方。ちょっとお待ちいただきたい。その論理、逆に日本に向けられたらどうですか?
「日本は過去の大東亜政策のせいで中韓系の移民を抱えることになったし、現在の東アジアの緊張も全て日本の責任だ。日本は今後中韓にどれほど犯罪的行為で苦しめられたとしても、それこそ中韓のテロリストが日本の一般市民を殺傷する事件が続発しても中韓への賠償を国が滅ぶまでしつづけろ」なんて言われて許せますか?これが許せる敬虔なキリスト者のような清き御心をもっておられる方にはこれ以上何も申しませんが、許せないのであれば自分が受け入れられない論理を人に押し付けるのは傲慢かつ偽善的です。
この件でフランスを責めるような人は部外者なのに「日本は慰安婦に謝れ」と叫ぶ西欧の左翼市民団体と何も違いません。
ということで、私は個人的にLaïcitéに関わるイスラム系の事件に関してフランスを責める気にはとてもなれない。フランス人が他の「先進的」な欧米人のように偽善者になる必要は全くない。一部にはフランス人だって他国で自己流を通す傲慢な国民じゃないかという声があるが、果たして本当にそうだろうか?
私が個人的に知る範囲では、日本で出会った外国人の中で最も真面目に日本語を学び実際に日本語で普通に話せるレベルに達していたのはフランス人だ。今時日本語の上手な外国人はどの国にも一定数いるようだが、フランス人の場合は量と質が桁違いである。例えばパリの日本語書店で日本語の本を普通に立ち読みし購入していく中年以上のフランス人は少なくない。だが、ロンドンの日本語書店には大抵東アジア系の人しかいないのだ。 単なる観光客はともかく本当の日本好きのフランス人はしっかり「郷に従っている」と思うのだが、それでもフランス人が他の西欧人と比べてとりわけ傲慢だと思われるだろうか?
もちろん、たまたま私が「自分の周囲だけ」の狭い情報から都合よく勝手な判断をしているだけなのかもしれない。だがもし仮にそうだとしても、私は断固フランスを支持する。他の西欧人のように無闇にかっこつけたりせず正直に思ったことを言えるフランス人が私は好きだ。
神谷 匠蔵
1992年生まれ。愛知県出身。慶應義塾大学法学部法律学科を中退し、英ダラム大学へ留学。ダラム大学では哲学を専攻。
※写真、Wikipediaより(アゴラ編集部)