森信三先生は「二つの真理」として、①「わが身にふりかかることは、すべてこれ天意なり」―いいかえれば「絶対必然即神の恩寵なり」と肚をすえること、及び、②「この世に両方良いことはない」という陰陽循環の理、を挙げておられます。そしてそれに続けられて、「この二つの真理によって解決できないことはないといえよう。同時にこれ、宗教と哲学とが一如に溶融した境というべし」というふうに言っておられます。
①は、信じるか信じないかという正に宗教の世界でしょう。先月15日のブログ『天に守られる人』で述べた通り、私は育ってきた家庭環境の影響もあって、幼い頃から天の存在を自然と信じていました。長じて中国古典に親しむようになってからは、天の存在を確信するようになりました。私自身はそういうふうに思って、全てが天意だとして今日まで来ました。
全てを天意という形で素直に受け止め、ある意味天にその責任全てを押し付けて生きたらば、気がずっと楽になり一切の悩みから解放され、余計なストレスを溜めずして常に前向きに行動できます。
物事が自分の希望通りに進んだらば、「天の助けだ。有り難い」と謙虚になって感謝の念を抱き、逆に思うような結果が得られなければ、「失敗ではない。この方が寧ろベターなんだ」と考えるようなります。己の行いに心底恥ずべき所無しと信ずる時、如何なる結果になろうともその天意を信じ、終局悪いよう行くはずなしと思い切るということです。
他方②は、陰があれば必ず陽があるという正に哲学の世界でしょう。之は「万物平衡の理」とも言われるもので、換言すれば「満つれば欠くる世の習い」という考え方です。神は全ての人に対して公平で、良いこと尽くめや悪いこと尽くめで終わることは決してありません。之が「天の摂理」とでも言うべきもので、東洋の基本的な哲学です。一方が出れば、その反作用でバランスして行く此の調和こそが、宇宙における最も霊妙な理かもしれません。
中国古典思想では宇宙に存在するあらゆる物の構造は「陰」と「陽」の二つの要素から成ると考え、陰と陽をバランスさせることで全体(極)がバランスすると考えます(一極二元の法則)。陽は造化(ぞうか:天地とその間に存在する万物をつくり出し育てている者)のエネルギーの一つであり活動・表現・分化・発展を齎すもの、陰のエネルギーというのは順静・潜蔵・統一・調節の作用をするものです。つまり此の互性が上手く働く中で初めて、ヘーゲル流に正反合の世界で進化・発展し得るわけです。
要は世の全ては最終的に辻褄が合うよう出来ているということです。良きを受け有頂天になっているでなく、悪しきを受け悲嘆に暮れることなく、また良い事柄があると思い生きて行くのです。「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」というように、何が禍になり何が福になるかは分からぬものです。
従って先に述べた通り森先生は、「この二つの真理によって解決できないことはないといえよう。同時にこれ、宗教と哲学とが一如に溶融した境というべし」との言い方をされていますが、私は冒頭①も②もある種似た類の考え方と言えるものだと思います。
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