蓮舫さんがYahooでロングインタビューに応じました。とても真摯な内容です。聞き手のジャーナリスト・野嶋剛さんは台湾支局長の経験もある方でとても良く知っておられしっかり突っ込みされています。
しかし、この問題をこれまで追っかけていたとか、役所で外交交渉を台湾とやっていた立場からいうと、突っ込みが足らないと思えるところもあります。大事なことですので、蓮舫さんに過去の経緯を正しく思い出していただくためにも詳細にチェックしてみたいと思います。蓮舫さんもぜひ、しっかり読んでいただけるとうれしいです。
私の希望は、蓮舫さんが早く「損切り」してしまって、一皮むけた政治家として再出発されることです。また、民進党がこの問題をいい加減に処理して引きずるのでなく、難問にその場限りの糊塗策で対応するのでない重厚な責任政党として生まれ変わることであって、日本にとって不要な存在だなんて思ったこともありません。(以下、蓮舫さんの発言部分は太字)
――1985年の国籍法改正をきっかけに、蓮舫さんは日本国籍を取得した、という理解でいいでしょうか。
そうです。日本の国籍取得です。
――1985年以前の日本の国籍法は、国際結婚の子どもは父親の国籍しか選ぶことができませんでした。ということは、生まれてから17歳になった1985年まで、中華民国籍(以下、台湾籍と呼ぶ)だったということですね。
そうです。ただ、(日本と中華民国が断交した)1972年以降は、国籍の表記としては「中国籍」となっていました。
中華民国籍の方の戸籍・在留カード・運転免許証などでの表記については、「日本李登輝の会」という団体が台湾の人々の立場に立ったたいへん詳細な解説を作成されており、それを参照しています。
それによると、「昭和27(1952)年4月28日、日本が中華民国と「日華平和条約」に署名し、前年9月8日に署名のサンフランシスコ講和条約が発効したこの日、外国人登録令(昭和22年公布・施行)が廃止され「外国人登録法」を制定、台湾出身者は中華民国(中国)の国民とみなされ国籍を「中国」と表記。」することになったとあります。
ここは非常に重要なことであり、中華民国籍の方の戸籍などにおける国籍表示は、1972年の日中国交正常化に影響されることなく蓮舫さんが生まれたときから常に{中国」でした。つまり、蓮舫さんが「(日本と中華民国が断交した)1972年以降は、国籍の表記としては「中国籍」となっていました」と仰っているのは記憶間違いだと思います。
――これまでのメディアの取材で「生まれたときから日本人だった」と語ったことがありましたが。
この間、ネットなどで私の家族を攻撃するような、いわれなき書き込みがあったので、あえて私の気持ちとしては日本で生まれて育って日本の風土で育まれたという気持ちを話しました。ですが確かに法律上は17歳から日本人になっています。
17歳で日本国籍を獲得された前後の事情については、夕刊フジがこのインタビューが発表されたのと同じ日1992年、つまり日本国籍取得から7年後の記憶も鮮明だった時代に行われた24歳の蓮舫さんへのインタビューを掲載しました。
その24年後に行われたYahooのインタビューより記憶も新しく制約のない立場でお話になっているわけですから、信頼性が高いとみるべきです。その内容は、非常に多くの点でYahooインタビューで仰っているのと違うものです。まず、短い文章ですが、その全文です。
(出典;朝日新聞1992年6月25日夕刊)
「父が台湾人、母が日本人、19歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化したが。東京で生まれ育った身にとって暮らしに変化はなかったけど、『赤いパスポートになるのがいやで,寂しかった』(父や祖母を通して触れた台湾、アジアのアイデンティティは『日本』とは違うと感じる) 『日本のパスポートになるのがいやで、寂しかった』注;赤いパスポート=日本のパスポート
「日本で生まれて育って日本の風土で育まれた」と仰るような強い日本人意識は17歳や24歳の蓮舫さんにはなかったのではないでしょうか。
――国籍法の改正は1985年1月1日です。日本国籍になったのは具体的にはいつでしょうか。
手続きを行ったのは1985年の1月21日です。
――まさに国籍法の改正直後ですね。そのとき家族内で議論はありましたか。
父から、どう思うかと聞かれました。私からは父に、日本国籍を取得するメリットとデメリットを質問しました。父が言うには、台湾籍の父親と娘の国籍が違うものになる。ただ、日本で納税するかわりに、投票権がもらえる。政治参加ができると。それが最大のメリットになる。そんな風に言われて、日本国籍を取るという選択を決断しました。
上記の1972年朝日新聞記事では、「19歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化した」と説明されており、それと矛盾します。朝日新聞インタビューがより信頼度が高いとみるべきでしょう。
Yahooインタビューでのやりとりがウソだとは申しませんが、現在の立場を反映しての後付けのような印象を持つ人も多いでしょう。そして、あとでも書きますが17歳のときと19歳のときの話が混乱しているようでもあります。
――おそらく国籍取得の手続きはご自宅の近くの法務省の出先で行ったと思うのですが、問題は台湾の方です。東京・目黒にある台湾の大使館にあたる駐日経済文化代表処に、国籍放棄の手続きに行ったのでしょうか。
当時は亜東関係協会と呼ばれていましたが、学校を休んだとき、亜東関係協会に行くのは国籍のことですと、高校の先生に説明し、父と一緒に行ったのは覚えています。ただ、やり取りが台湾語だったのと、当時、そこで何が行われているのか父に確認するモチベーションがありませんでした。当時の私は17歳で、すべて父に任せっきりでした。
父親から台湾籍についての説明はなかった
――蓮舫さんの中国語能力はその時点ではどうでしたか?
ゼロです。
――ということは、台湾語か、あるいは中国語(北京語)でも、分からなかったということですね。
いっさい分かりませんでした。その後、北京に留学して中国語を学びましたが。
――台湾の国籍法では20歳にならないと台湾籍を放棄できません。しかし、親と一緒の放棄なら子供も放棄することはできます。その際、お父さんから台湾籍について詳しい説明を受けましたか。
説明はありませんでした。
――ご自身の認識では、1985年に日本国籍になり、台湾籍ではなくなったと思っていたのでしょうか。
はい。当時、国籍取得証明書を父から見せられて、「今日から日本人だ」と説明を受けたので、あ、日本人になれたんだと思って、そこで私にとっての国籍問題は終わっていました。
蓮舫さんは、17歳の1985年1月21日にお父さんと一緒に法務局の出先(区役所?)に行って日本国籍取得をし、その足で亜東関係協会の事務所へ行って中華民国籍からの離脱をしたと仰っていますが、これは、まったくの記憶違いでしょう。
なぜなら、このときに蓮舫さんがされたのは、中華民国籍だけをもっておられた蓮舫さんが、法改正によって日本国籍も留保することになって、その手続きに行かれたのでしょう。
そして、亜東関係協会に中華民国との合法的な二重国籍になったことを届けたということであって、そもそも、中華民国の国籍を離脱できる20歳にも達しておらず、離脱手続きも出来るはずありません。
そして、19歳になってから、日本国籍選択手続きをされたわけです。
そのあとに、中華民国国籍離脱手続きをされたかどうかが問題になっているのです。この日本国籍選択手続きを誰とどのようにされたのかについて、蓮舫さんはこのYahooのインタビューで、お父さんとだと仰っているのですが、それは、17歳のときに日本国籍の留保申請をされたときのことであって、19歳のときの手続きとはまったく別のことをおっしゃています。
なお、本人の証言でありませんが、本年の6月に週刊ポストに、この19歳のときの手続きはお母さんと行ったという、お母さんが現在、経営されるスナックの常連客がお母さんから最近聞いたという証言が掲載されております。伝聞ではありますが、週刊ポストという四大週刊誌のひとつの記事だけにかなり信頼度は高いと思います。
中華民国籍離脱の手続きについては、20歳にならないとできませんから、このときはできません。従って、20歳の誕生日以降に亜東関係協会の事務所でとられたはずです。
お父さんと行った手続きは、日本国籍留保申請をして二重国籍になったことを届けるためであって離脱のためでなかったことは日時からしても明らかですから間違いです。
そして、20歳のときに改めて離脱手続きをしたという記憶は蓮舫さんにもなさそうです。その手続きをしたけど、そんなことは忘れてしまったということは、可能性ゼロではありませんが、普通は考えにくいことです。
いずれにせよ、19歳になって、区役所に行って日本国籍選択手続きをした日については、台湾当局に問い合わせなくとも、自分の戸籍謄本を見れば書いてあるはずですが、なぜか、その日時を明らかにされていません。
――1985年までは、台湾の緑色のパスポートを使っていたのですよね。
そうです。
――よく台湾には行っていたのでしょうか。
はい。台湾バナナの収穫期が7、8、9月ですから、その間、父は畑をみて農家の人たちといろいろ話すために台湾に戻っていました。母も父を手伝っていましたから、私たちきょうだい3人の子供も父にくっついて台湾に行っていたのですが、いつも台北の円山大飯店に泊まっていて、父だけバナナが収穫される台湾の南部の台南などに行っていました。当時は中国と軍事的に対立する台湾は戒厳令下で外出するなと言われてずっとホテルにいて訪ねてくる人も日本人だけで、子供のころは、自分がいるのが果たして日本なのか台湾なのか区別もついておらず、台湾のパスポートは旅行のための証明書のような感覚でした。
ただ、子どものころ、覚えていることがあります。当時の国籍法では、お父さんが日本人で、お母さんが台湾人ですと、日本国籍になるのです。その境遇にあった友達は生まれた時から日本人でした。私は、同じ日台のハーフで、同じように日本語しかできないのに、台湾籍だった。なんでなんだろうと不思議に感じていました。
「一番じゃなきゃダメですか?」(PHP研究所)という2010年に出た自伝的な著書が蓮舫さんにはあります。そこに書いてあることと、このYAHOOインタビューの内容はかなり違います。
どうしてこんなに違うのか不思議です。著書によると、蓮舫さんが小学校のときに両親は一年のほとんどを台湾で過ごし、蓮舫さんは兄弟と母方祖母と日本におり、夏休みに2か月ほど台湾で両親と合流したと書いていました。そして、台湾の人々と交流し、台湾の言葉で話すようになったなどと詳細な記述があります。
その後、中学高校になると部活があるので台湾で過ごす時間は短くなり、台湾語も徐々に忘れていき、大学で中国後を第二外国語として学んだと書いています。申し訳ないけど、台湾語(福建語に近い)が分からないということを国籍離脱手続きとの関係で仰ったので、それに合わせて子供時代のことも著書と違うことを仰っているのかもしれません。
――日本の国籍取得の後は、台湾のパスポートは使っていないのですか。
使っているのはすべて日本のパスポートです。台湾のパスポートは失効しています。
――期限切れで、そのままになっているということですね。その後は使ったり、再取得したりしたことはありますか。
ありません。日本のパスポートだけ使っていました。
このあたりは、あとの留学時代のことも含めて、もし、新事実が出れば別ですが、とりあえずは信用しておきたいと思います。
――お父さんご自身は台湾籍を放棄しないまま亡くなったのでしょうか。
詳しいことは何も聞いていません。私は1985年に日本国籍の取得で、母の戸籍に入って斉藤蓮舫になりました。父は母の戸籍に入っていません。ですので、日本国籍ではなかったのかも知れませんが、はっきり分かりません。
お父さんがその後、帰化したかどうかも成人した蓮舫さんは聞かされていなかった、1994年にお父さんがなくなったときも、確認しなかったという説明を素直に受け取れる人は少ないでしょう。
――中国に留学したときも完全に日本人として手続きしたのでしょうか。いわゆる台湾人の「台湾同胞証」を使ってはいませんか。
いません。日本人としてビザを取っていきました。
――台湾の身分証やIDナンバーも持っていませんか?
持っていません。
これもそうであることを祈ります。
――お父さんが90年代半ばに亡くなったときも、台湾の財産を台湾籍として取得したことはなかったでしょうか。台湾出身者は二重国籍を保持して台湾で納税したほうが税制上、優遇措置を受けられるケースもあります。
父は台湾に遺産なかったようです。そうしたことはまったくありません。
手広く台湾で仕事をされてしてお金持ちだったはずのお父さんが台湾での財産をまったくもっておられなかったというのはにわかに信じがたいことですが、ありえないわけではありません。
お父さんの戸籍を亡くなったときの諸手続のために見たはずで、そのときに自分の台湾籍が抜けてないことに気がつかなかったはずがないという指摘を私もしていますので、それへの対策としての説明でないことを祈ります。
しかし、それでも、日本での遺産相続なども含めてお父さんの台湾での戸籍などを見られたことがないというのが普通、想像しにくいことは、私たち庶民でも両親が死んだときに直面する煩雑な手続き、そして、それを確認して捺印したりする経験からすれば、不思議な印象があります。
――報道によれば、過去に「CREA」という雑誌のインタビューで自分が「台湾籍です」と語っているという指摘を受けています。
そのとき、私の記憶では「台湾籍だった」と過去形で語っていました。当時の取材で、中国に留学した理由を尋ねられたので、台湾には助けてくれる父の友人もいるぐらいなので、いままで知らなかった中国を見てみたいという思いだったことを説明しました。そこでは「台湾籍だった」と言ったつもりでしたが、当時の編集者を探してテープで確認するわけにもいきません。
著書では、台湾に父親の関係者がたくさんい過ぎるので北京を選んだと書かれていますから、留学先に北京を選んだ理由が逆さまになっています。クレアのような著名雑誌にのるインタビュー記事は丁寧にチェックするのが普通ですが、どうしたことでしょう。
――先ほども質問しましたが、「生まれたときから日本人でした」とか、日本国籍を取得したのが、18歳と言ったり、17歳と言ったりしたとか、説明がぶれた点が、疑問や批判を深めたというところはなかったのでしょうか。
まず私には、自分がいわゆる「二重国籍」であるという認識はありませんでした。日本人であると普通に考えていたので、メディアに質問されても、何が聞かれているのかはっきり頭の整理がついておらず、説明の仕方が十分に統一されていなかった印象を与えたことは申し訳なかったと思っています。
1992年の朝日新聞インタビューで「『日本のパスポートになるのがいやで、寂しかった』(朝日新聞1992年6月25日夕刊)「父が台湾人、母が日本人、19歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化したが。東京で生まれ育った身にとって暮らしに変化はなかったけど、『赤いパスポートになるのがいやで,寂しかった』(父や祖母を通して触れた台湾、アジアのアイデンティティは『日本』とは違うと感じる) 」とおっしゃっていたのとだいぶ違うのが驚きです。
――過去の選挙広報で「帰化」という言葉を使っていたこともありましたが、厳密に言うと、帰化は成人の場合にのみ使うので、正しくは国籍取得ですね。
広い意味で国籍取得も帰化も同じように日本人になったことを指すと思って使っていたのであり、他意はありません。
最近、ある種の言葉狩りで、帰化という言葉をあまり使うな、用途を限定しろという傾向があります。かつて蓮舫さんが使っておられたように帰化という言葉をひろくとるのが本来の日本語です。少なくとも、蓮舫さんもついこのあいだまで使っていた帰化という言葉を、たとえば、第三者が使ったからといって、誹謗だというような批判をするひとがいるのはそれこそ誹謗中傷でしょう。
――1985年から現在に至るまで、すでに30年以上が経過しています。台湾籍を持っていないのかと問題提起されたことはなかったのですか。
ないですね。大臣になったときもまったく話にでなかった。今回が初めてです。
ウィキペディア中国語版などにも二重国籍だなどという記述がありますが、そういう記述がされると大変気にする政治家も多い中で、蓮舫さんがそれを放置されていたのは政治家としてはユニークです。
――現在、台湾に対して、具体的にどんな手続きしているのでしょうか。
台北駐日経済文化代表処を通して、私の台湾籍がどうなっているのか、確認をしてもらっていると同時に、これも代表処を通して、台湾の内政部に国籍の放棄の申請をしています。
――台湾籍の有無の結論はどのぐらいで出てきますか?
向こうの判断、作業ですから分かりませんが、時間がかかるかも知れないと言われています。そうなると、いまちょうど代表選の最中ということでもあり、また家族への攻撃という問題もあったので、私の意思の表明として、念のため、国籍放棄の手続きをしたということです。
どんな申請書を出されたか公開されてはどうかと思います。あるかないかも分からない国籍を離脱する申請書というものがあるのか、添付するべき書類はないのか気になります。
いずれにせよ、まだ、中華民国籍が残っていれば、内政部の許可が出るまでは、いわゆる「二重国籍状態」のはずです。
いわゆるとつけたのは中華人民共和国の法律で、自動的に中華民国籍は無効になっているのだとか、中華民国は国でないから中華民国政府が蓮舫さんを国民としてあつかっていたとしても二重国籍ではないという議論もあるが、日本の国籍法が避けるべきだとしている二重国籍状態であるのに間違いはないので無意味な議論だと思います。
しかし、いちおう、「いわゆる二重国籍状態」といっておきます。
――お父さん、お母さんの手続きミスかまたは別の何らかの理由で、蓮舫さんの台湾籍が残っていた可能性もありますね。もし残っていたとすれば、その間、台湾籍を有しながら、日本の国会議員になり、大臣も務めていました。日本では日本国民であれば、国会議員になることができるので、法的な問題はありませんが、道義的にどうなのかという声も出ていることは確かです。
私が日本人であることは、法的にも気持ち的にも解決している
私が日本人であるということは法的にも気持ち的にも解決している話です。日本のために尽くしたい、働きたいと考えて国会議員に3回手をあげてきて、日本の法律のもとで議員として、大臣としても務めてきました。
インタビュアーが法的問題はないといっているのは、留保が必要です。経歴詐称ではないかという議論もあります。また、たとえば、旅券の申請にはほかの国籍をもっているなら書く義務もあります。そのほかにも、問題があるケースがあるかもしれませんのでなんともいえません。
「日本のために尽くしたい」と仰るが「二位ではダメなのか」とか尖閣問題での曖昧な立場などを批判する人もいます。ダニエル・イノウエ議員が対日強硬派だったことなどをみればわかりやすが、外国系の政治家が父祖の国などに対するより自国に忠誠心が高いことを特別に世論が要求するのは、世界中でごく普通のことですし、それが人種差別とか言われることなどありえません。
少し法律的な話になりますが、(日本と中華民国が断交した)1972年以降、私の国籍は形式上「中国」になっています。仮に中国の国内法では外国籍を取得した者は自動的に喪失をしているので、二重国籍にはなりません。
また、日本と台湾は国交がないので、台湾籍を有していたとしても法的に二重国籍だと認定されることもありません。しかし、父の生まれた地である台湾のことでもあり、疑問を持たれることがあるならば、ここはしっかり払拭するべきだと考えて、今回、台湾籍の放棄の手続きを取りました。ここに尽きると思います。
この問題はややこしいので別途論じているので、そちらをご覧ください。また、池田信夫氏との動画対談でも書きににくいことも含めて詳しく説明してます。
私は通産省時代に北西アジア課長という中国や台湾も担当する仕事をしていました。台湾には高官が行けないので、課長だけれどもあちらの閣僚クラスと交渉することが多かったりしました。
だから、台湾との関係の裏表はういやほど知っていますが、北京と台北と双方に気を遣って曖昧にしておくのは日常的なことなのです。
しかし、いずれにしたところで、法務省が中華民国籍であれ、中華人民共和国籍であれ、日本国籍取得者に対して、中華人民共和国の国籍法によってあなたの中国籍は自動的に無効になりますから、あらためて国籍離脱手続きをしなくていいですと指導しているなどということがあるはずありません。
――しつこいようで申し訳ありませんが、お父さんから生前、「台湾の国籍をなんとかしなさい」と言われたことはありませんか?
一回もないです。日本の国籍取得証明が送られて、ずっと日本人という考えで過ごしてきました。台湾に行くときも日本のパスポートで外国人として行っていました。自分が日本人だと一度も疑ってきませんでした。
――お父さんが勘違いか何かで蓮舫さんが台湾籍を抜く手続きが必要だと考えていなかった可能性もあると思います。
とにかく父からは「お前は日本人になった」という説明でした。それ以上は何の話もないまま、父は亡くなったので、台湾に籍があるかもしれないという認識は、この間、持ちようがありませんでした。
すでに書いたように、お父さまとされたのは、中華民国籍のほかに日本国籍を取得する留保をする手続きであって、中華民国籍からの離脱ではありません。これは、蓮舫さんの「勘違い」「記憶違い」だということにしておきましょう。
――ちなみに息子さんお二人の国籍はいかがですか。
完全な日本人です。夫は日本人で、日本人同士の結婚になっていますから。
――ご家族にもバッシングが向かったと主張されていますね。
ネット上で、私の息子と娘の名前が中国風でおかしい、という書き込みがありました。しかし、名前は個人のアイデンティティです。親が娘や息子に対して思いをもってつけてあげた名前をヘイトスピーチ的に否定されるのは耐えがたい気持ちになりました。
蓮舫さんが翠蘭とか琳という名前を中国文化に対する愛着を強くもたれていることの証左として語ったことはありますが、この名前を蓮舫さんは公表されており周知の事実です。ただし、そのことを知った人がヘイトスピーチ的な言動をしていることをしばしば見るのは私にとって残念なことです。
蓮舫という名前に何の違和感もない
――夫の姓である「村田蓮舫」で選挙に出るべきだという指摘もありましたね。
私は謝蓮舫でしたし、(日本の国籍取得後は)斉藤蓮舫でもありました。結婚して村田蓮舫にもなりました。そのなかで唯一変わっていないのは蓮舫という名前です。その名前を使って芸能界でデビューし、ニュースキャスターもやらせていただきました。蓮舫という名前を使って政治活動を行っていることには何の違和感もないものです。
法律上、許されているので仕方ありませんが、芸名であるといってもファーストネームだけはいかにも不自然です。
これまで、ほとんどの日本人は蓮が名字で舫が名前だと思って、本名では仕方ないかと思っていました。また、結婚されて村田蓮舫が本名だということを知る人も少数派です。
やはり、もし、民進党の代表になられたら、「村田代表」で活躍されるほうがより多くの人の共感を得ると思います。バラク・フセイン・オバマ大統領も本名だから仕方ないので大統領になれたので、芸名を「フセイン」とか「ムバラク」といっていたのでフセイン大統領になりたいといったら絶対に選ばれなかったと思います。
父が育った台湾を愛し、日台関係に努力
――台湾の国籍を持っている認識はないという説明ですが、台湾と日本との関係について、あるいは、中国と日本との関係について、どう考えますか。
夫の故郷である長崎のことをとても大切に思っているのと同じように、父が育った故郷である台湾を愛して、台湾が素晴らしいところだと思っている気持ちは否定しません。そのなかで自分が政治家としてできる活動として、日台関係の発展や友好のために働きたいという気持ちもあります。
日本にとって台湾も中国も大切な隣人です。台湾との人的交流はすごく深まっています。一方、経済は中国とは切っても切れない。確かに国民感情は中国とは十分に分かり合えていません。距離感という意味では、台湾と中国とでは、対照的なところがあります。台湾と中国、それぞれの特異性を尊重しつつ、外交努力などを通して関係をできるだけ近付けていきたいと思います。
中国との関係は民進党にたくさんおられるので、台湾のことをもっと一生懸命やってほしいという人も多いと思います。今回、イレギュラーなかたちながら台湾とのみんなが思っていた以上に深い繋がりがオープンになったのですから、正々堂々と台湾のために頑張って欲しいと私も思います。
――政治家になろうと思ったのはいつでしょうか。
2004年、36歳のときでした。私の子供が小さく生まれたものですから、子供の問題をなんとかしたい。小児科や産婦人科の少なさや、高齢出産の問題もあり、長く生きられない子供も多い、少子化対策と言いながら、行政サービスで子供を支える政治の気配りや予算が圧倒的に少ない。そのとき、出馬のお話をいただき、子供の問題を政治で解決したいと考えた。それが大きいです。
――将来、民進党を率いることになったら、何を実現したいですか。
子どもと若者に政治に期待や希望を持てる政策を進めたい。彼らを豊かにすれば、20年後に高齢者を支える原動力になる。現役世代を次の世代につないでいく政治、それを軸にしたいと考えています。
――国民の多くは民進党がダメだと思っている。なぜそう思われるのでしょうか。
政策が見えていなかった。いままでは過去に刹那的に出した政策を謝罪しているという印象がぬぐえなかった。でも、民進党にもいい政策はあるんです。それが見せられるような作業をしていきたい。
――いまの民進党に足りないものは。
団結力、リーダー力。支持率があればリーダーに求心力が生まれ、団結します。支持率が10%を切ると党内で誰かの責任にしないと居ても立ってもいられない。野党には権力という求心力がないので、執行部批判がいちばんのストレスの発露になってしまっていますね。
――改めてうかがいますが、首相にもなりたいと思っていますか。
はい。
――そのときに実現したい思いは。
予算のあり方を大きく組み替えたい。日本の人口構成を考えた時に次の世代に予算を振り向けていくのが最大の課題です。
民進党にいちばん欠けているものは、今回の国籍問題のような大事な問題を仲間内でかばっていい加減に処理するとか、反省しないとか、素直に誤りを認めず批判者を封殺するとかいうことでないかという指摘もあります。私としては、この騒動を機に蓮舫さんが一皮むけてグレードアップした政治家になることを期待したいと思います。