「僕は挑戦者」、錦織圭さんがマリーとの死闘を勝ち抜き、放った言葉です。
多くの人は錦織選手が実質的に世界NO1に近い実力者マリーを破ったその試合運びに見とれたかもしれませんが、私はそのあとの会見で放ったこのたった一言が彼のスタンスを言い表していると思います。世界ランクで上位にはいくけれどその先に分厚い壁があり、なかなか上に上がれない足踏み状態が続きます。その壁を確実に崩すために負け試合でも何か掴もうとしてきたのではないでしょうか?あきらめずにそこまでやるのか、というプレーの連続、そしてマリーよりも勝ちたいという強い精神力が勝利に導いたような気がします。
私ぐらいの中年期になると今の若い方々の生き方と我々の時代の生き方をどうしても比べたくなります。比べることにどれだけ意味があるのか、といえば時代背景が違うのでいくらでも否定できるのですが、人間の成長と成熟という過程はどんな時代に生きる人間でも同じであるはずです。
我々の時代は何が違ったのか、といえば全てが右肩上がりの社会であったといえます。株も物価も製品開発もスポーツもおいしいものもファッションも遊びもすべてに於いてどんどん良くなり、バリエーションが増え、人々の意欲を沸きたててきた気がします。(今の時代にはそれがない、とは言いませんが、そのペースや種類、スケールの大きさが違っていました。また今の時代は何事も便利さの追求に傾注しすぎています。)
私がこのブログで再三、バブル時代との比較をするのはその時を境に社会が大きく転換してしまい、右肩上がりからより分岐の多い選択肢型に変わっていったと感じるからです。例えば山登りを想像してください。バブルまでは皆で同じ道を登っていました。国は若かったし、「リゲイン」飲んで24時間働くことも厭わなかったのです。険しい時も声を掛け合い、景色を楽しむ余裕がありました。
ところがバブルの後は坂道が平たんになったと同時に道がいくつもに分かれてしまったのです。「個の時代」とは私はこっち、君は向こうと選択肢であり、人々が違う人生を歩み、価値観の育み方も変わったことではないでしょうか?
その道の一つにアメリカMBAブームと若手企業家のIPOブーム路線がありました。その代表選手が堀江貴文氏や楽天の三木谷氏やサイバーの藤田氏でしょうか?あるいは一流のスポーツ選手が各方面で育ってきたという横の広がりも感じます。オリンピックのメダルの数もこのあたりに根拠を見いだせるかもしれません。
非正規雇用社会はもう一つのメジャーな路線でありました。もちろん、好き好んでその道を選んだわけではなく、そこに押し込まれてしまった、といった方が正しいのでしょう。行きたかった正社員の道は細く、険しく、体力的自信がなかったという背景もあるでしょう。
日本財団が先日発表した統計は衝撃的でした。過去一年の自殺未遂経験者は53万人、4人に1人が本気で自殺しようと考えたというのです。特に20-39歳の願望者が多いのは先ほどの道の選択肢で細く藪の多い道なき道を選んでしまったということでしょうか?自殺を考えた理由は男性が勤務問題がトップ、女性は家庭問題となっていますが、想像するに相談する相手がいない状態になっていないでしょうか?
上を向いている人は険しい道でもよじ登ります。堀江貴文氏の近著「99%の会社はいらない」では一歩踏み出す勇気を説いていますが、自分の心の扉を開けられるかどうかが大きな差でしょう。私の知り合いに自閉気味の若者がいます。お父さんはエリートサラリーマンでお母様もしっかりした方で一流大学に入学したもののとん挫してしまいました。勝手な想像ですが、親の期待を押し付けすぎて遅れを取り戻せなくなった気がします。私としては一筋の光を見出し、自力で進むきっかけを見出すことが先決だと思っています。
全ての人は挑戦者です。錦織圭さんも自閉症のその方もそして私もです。その坂道の険しさは違うし、初めからトップを目指しても続きません。その人に合った挑戦を一歩一歩確かめるように進めていくことが病んだ若者たちを救う方法でしょう。そのためにはコミュニケーションも維持することを是非ともお勧めします。
では今日はこのぐらいで。
岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 9月11日付より