AIがもたらす超ヒマ社会。
働くこと以外の生き方をみつけなければいけません。
することはたくさんありましょう。飲食。恋愛。芸術。学問。奉仕。
ぼくらの一つの解が「超人スポーツ」。スポーツは自分で汗をかくから楽しい。ロボット同士の対戦を観戦しても興奮しない。AI・ロボット後も人類に残される業務であります。だから、新しいスポーツを作って楽しもう、というもの。
とはいえ、全ての仕事がAI・ロボットに移行することはありますまい。予測どおり、半分ぐらいが奪われる、と考えてみましょうか。
すると、その超ヒマ社会が経済システムとして回るのか、が巨大テーマとなります。
彼らが半分の仕事を奪うということは、半分の生産を引き受けてくれるということでしょうが、じゃあぼくたちが半分働かなくなって、世の中の生産量やGDPが変わらないとして、それで世の中が回るのか。生産論よりも分配論の問題かもしれません。
その一つの回答案がベーシックインカム(最低生活保障、最低所得保障)です。
働いているか、いないかに関わらず、国民全員に生活に必要最低限のお金を支給するこの制度は、社会福祉コストが増大する超高齢化社会に向けた大胆な政策プランとして注目されていますが、AI・ロボットの台頭も影響しているのでしょう。
2016年6月、スイスがその是非を国民投票にかけました。月額で大人が2500スイスフラン(約27万5千円)。外国人にも支払う案でした。最低生活保障を導入する代わりに年金や失業手当を廃止する提案。反対約8割で否決されました。議論が生煮えで政府も反対だったんです。
しかし、可能性のある制度だと思います。社会保障システムをまるごと変える大胆な策だけに、成り立つのかの分析が必要です。まずはいくらのベーシックインカムなら社会保障廃止が実現できるのか、の数式ですね。
その上で、全ての人に最低所得を渡すことが労働意欲に与える影響と、それが経済にもたらす影響。これが成り立つなら、AI・ロボットが仕事をしてくれても結構、働くヤツは働くさ、となるかもしれません。
これに関し、中央大学の森信茂樹教授がデータを踏まえた論考を提示しています。
「人工知能に仕事を奪われる人々を、ベーシックインカムで救おうという議論の現実味」
http://diamond.jp/articles/-/98513
一人当たり月10万円弱の給付額として、60兆円ばかりの課税が必要という答案。データを用いて、財源調達などの政策論にも踏み込んだ点はさすがです。こうした論考をたたかわせ、AIという技術と、社会経済との折り合いを考える。理系・文系の「学」の出番です。
こうしたAI社会をどう実現していくのか。
マレー・シャナハン「シンギュラリティ」は、大きな社会的・政治的意志が必要、とします。
AIの未来に悲観・楽観であるとを問わず、そうであることに同意します。そしていよいよそういう議論と判断が必要になっていると考えます。
「シンギュラリティ」は、デジタル・パーソナルアシスタントの可能性をにらみ、AIへの権利、人格を与える議論を進めています。これは日本政府・知財本部で赤松健さんがAI人格論を持ちだしたことを想起させます。
しかし、AIの人格に関しては、AIが複製・分割・結合されることとの関係をどうみるか。市民権が国にヒモついてきたことをどうとらえるか。筆者はそう指摘します。制度設計は超難問です。
脳のエミュレーションから高じて、精神のアップロードに話は及びます。これは生命延長装置の誕生を示唆するものです。筆者はその可能性と危険性を丁寧に論じます。
AIはまだ技術論の段階ですが、実装を展望し、社会、経済、政治、哲学、宗教などの知見を総動員することが求められます。研究者=彼らから、みんな=ぼくらの問題になりました。
仕事のなくなる社会とベーシックインカム。経済学・政治学などの知恵を国際的にたたかわせて、現実的な仕組みを考えてもらいたいものです。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2016年9月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。