「弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と語る長谷川豊さんへ --- イケダ ハヤト

寄稿

ikehaya0930

ひとこと書いておきましょうか。

卑怯者はいるよ、そりゃ。

「自業自得の透析患者は殺せ!」という過激な「逆張り」で大炎上した長谷川豊さん。キャスターを務めていたテレビ番組を降板させられたとのこと。まぁ、そりゃそうですね。

経緯を説明したブログに、このような言葉がありました。

私は日本の最大の闇は「社会保障給付費」だと思っています。無駄は山ほどあるけれど、これほどのムダだらけの世界はないと。ここにメスを入れなければ、日本は早晩厳しい展開になると信じています。

が、そこにメスを入れるということは、一見すると「弱者切り捨て」と言われかねない状況になります。

でも、そこに「本当に弱者なのか?」「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と訴えたかった。人様から預かっている税金。もっともっとしっかりしなければ、私はおかしいと信じています。

テレビ大阪『ニュースリアル』降板を受けて : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。

ぼくらは、それを前提に社会を作っていかなくてはいけないのですよ。制度を作る以上、一定の不正は、「必ず」あります。

「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」というのは、まさに愚問です。そりゃあ、いますよ。

恐ろしいのは、そういう処罰感情が、ほんとうにサポートを必要としている人を萎縮させ、孤立させてしまうことです

「人様から預かっている税金。もっともっとしっかりしなければ、私はおかしいと信じています」という言説も、萎縮を誘うものですね。

こうした論調が強くなると、生活保護制度と同じで、「社会保障を利用することは恥」みたいな本末転倒な話になっていきます。その結果、貧困は苛烈になり、社会は劣化していくわけです。

ぼくら影響力を持つ人間が語るべきは、むしろ「困ったときは積極的に制度を利用しよう」というメッセージです。困窮している人を萎縮させるような社会は、まさに、救いようがありません。

弱者かどうか、卑怯者かどうかを、誰がどう決める?

そこに「本当に弱者なのか?」「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と訴えたかった。

そもそも、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は、どのようにして判断するんでしょうね?

長谷川豊さんは「自業自得の透析患者は実費負担にして、払えないならそのまま殺せ」と語っていますが、誰がどのような基準で、それは「自業自得だ、だからお前は死ね」という判断を下すのでしょう。

国家?コミュニティ?裁判?

……違いますよね。

そんなものは、判断できないんです。

他者が判断を下すのが難しいのはもちろん、当の自分ですらも、判断に誤る可能性が高い話です。

ほら、うつ病の若者なんかにも、「自業自得じゃないのに自業自得だと思いこんでる人」って、けっこういますよね。「ブラック企業に勤めてしまい、身体を壊したのは、私が悪いんです……」とか。いやいやいや……。

人工透析のように医療が絡んでくるものに関していうと、さらに話は複雑です。

たとえば医者から「あなたが病気になったのは日頃の食生活が原因です」と断言されたとしても、よくよく調べると、まったく違うところが原因になっていた……ということは大いにありえますよね。

そもそも「糖尿病」ひとつとっても、遺伝的・民族的に罹患しやすさが変わるわけです。

欧米人に比べ、日本人の摂取カロリーは少な目で肥満者も目立たないのに、 2型糖尿病が多いのは、日本人が民族的に2型糖尿病になりやすい体質(遺伝的素因)を 持っているためと考えられます。

遺伝的体質と糖尿病‐糖尿病教室|京都大学 糖尿病・内分泌・栄養内科

マクロに見ると「日本人は糖尿病になりやすい」のですが、それも「自業自得」なんでしょうかね?

日本人に生まれたことが自業自得?「あいつが透析を受けているのは、自業自得じゃないのか?」というのは愚問ですよ、ほんと。

倫理観を育てる。

結局のところ、ぼくらができるのは「制度を悪用することはダメだ、という倫理観を育てていくこと」に尽きると思っています。

たとえば、今の日本社会において、「90%」の人は「制度を悪用して不正に利益を得るのは、悪いことだからやってはいけない」と考え、倫理的に生きているとします。

ぼくら大人がやるべきは、この割合を高めていくことです。90%が95%になるだけで、犯罪も不正も減り、監視・処罰するためのコストも減少します。

 

では、人々の倫理観を高めていくために、何をすべきか?

それは、他者に対する疑念を捨て、他者を信頼することです。

「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」という愚問を捨てて、「多くの人は正しく行動している、だから疑うのはよくない」と割り切ることです。

「大半の人は正しく行動している」ということを信じることで、自然と、自分自身も正しい行動を取るようになります。社会保障のコストだって下がるんじゃないでしょうかね。

「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなりますよね。人間の倫理観というのは、ある意味で、その程度のものです。だから、ぼくらはまず、信じなければいけないのです。

まとめ。

要点をまとめましょう。

  • 不正に手を染める人は「必ず」存在する。社会の摂理について苛立っても仕方がない。
  • そもそも、「ほんとうに不正なのか」を判断するのは難しい。自分ですら間違える可能性があるものであるがゆえ、他者が容易に判断を下せるものではない。
  • ぼくら市民ができるのは、他者を信頼することによって、徳を高めていくこと。倫理的に行動できる人を増やしていけば、社会のコストは自然と減っていく。

誰の中にも悪人は存在します。ぼくも悪いことをたくさんしてきましたし、これから手を染める可能性もあります。妻がいなくなったらヤバイですね……。

 

「卑怯者を探す」ことはやめましょう。

「裏切られた」と騒ぎ立てることはやめましょう。

だって、あなたも大なり小なり、卑怯なことをして、他人を裏切ってきたでしょう?

それよりも、信頼の力で、人々に正しい行動を呼びかけましょうよ。結局のところ、それが一番早いんですよ。