「村上春樹はノーベル賞をとれるのか?」と騒ぐのはそろそろやめにしないか?

常見 陽平

村上春樹

井上陽水の「氷の世界」が好きだ。日本で初めて100万枚を突破したアルバムのタイトル曲である。1973年12月1日に発表されたこの曲には「ノーベル賞」が歌詞に、やや唐突に登場する。この賞の存在を知ってから、しばらくしてから知った曲ではある。この頃の陽水は冷たく張りつめた空気感、視点がいい。

ノーベル賞ウィークである。ノーベル生理学・医学賞に東京工業大学の大隅良典栄誉教授(71)が選ばれた。各メディアが速報を伝え、Twitterのトレンドにも入る。首相をはじめ、みんなが祝福する。安倍首相は電話をかけ「日本がイノベーションで世界に貢献できることをうれしく思う」などという祝辞を贈った。おそらく、大隈先生が首相から電話をもらったのはこれが初めてだろうが。

ノーベル賞を受賞した研究者を、もちろん私も尊敬する。研究とは、人類の、科学の発展のために行うものであり、先人の偉業をリスペクトしつつ、一歩前に踏み出すことであり、自分が一生をかけてでも取り除きたい(そして、それを達成できるかどうかも、報われるかどうかも分からない)違和感、疑問と向き合う行為である。これをやり遂げ、生きているうちに報われた学者は、もちろん尊敬する。

ただ、「若き老害」としては、この一連の光景に、何かこうさめた態度になり、文句の一つでも言いたくなる。研究や教育をする機関としての大学には日常的に批判が集まり(もちろん、健全な批判も多いので、大学人は真摯に受け止める必要があるが)、様々な予算が見直される。研究の多くは、世間から興味が持たないものだ。研究者の多くは報われない。大学院を出て博士号を持っていても就職できるとは限らない「ホームレス博士」の時代だ。仮に大学や研究機関に就職できたところで、将来の雇用は保証されない時代だ。日本人がノーベル賞を受賞した時だけ、なぜにここまで大騒ぎするのか。

毎回、ノーベル賞のたびに盛り上がる「村上春樹は、今回こそ受賞するのか?」問題にしてもそうだ。これは逆に言うならば、その他の作家への注目などまるでないこと、文学界への一般の関心が村上春樹で止まっていること、文化の停滞・衰退を象徴していないか。その村上春樹は、新作を発表する度に何かしらの賛否を呼ぶ作家ではあるが、いまや集金モードであり、世に何かを問いかけていないように見える。あと数年で古希を迎える彼は、今、何を残したいのか。

ノーベル賞が日本人の実力を世界に示す場の一つであることは間違いない。ただ、これに合わせた一連の盛り上がりにもまた文化の衰退、魂の腐敗、道義の頽廃が見て取れないか。村上春樹以降、ノーベル賞候補となる作家が日本から生まれるのか。それこそが現在、問われていることではあるまいか。積ん読状態になっている『コンビニ人間』を読みながら、考えることにしよう。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2016年10月4日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた常見氏に心より感謝申し上げます。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。