佐山サトルを変えたタイガーマスクという布切れ やらされた仕事の奇跡

常見 陽平

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「お前はトラになれ」。TVアニメ『タイガーマスク』の主題歌の一つは、こんなタイトルだった。親戚からクリスマスプレゼントで貰い何度も聴いた。BSプレミアムの「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」を見た。「タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~」だった。まさに会社の命令で、タイガーマスクにさせられた男、佐山サトルと、好敵手ダイナマイト・キッドの物語だった。夫婦で茶の間で見たのだが、プロレスや格闘技にそんなに熱くない妻も感動していた。

身長173センチと、当時のレスラーにしては決して体格に恵まれていなかった佐山サトルは、100メートルを12分台で走るなど、抜群の身体能力の持ち主だった。格闘技についても高い関心を持ち、キックボクシングのジムに入門する、異種格闘技戦を行うなど、貪欲に吸収していった。メキシコ、英国で武者修行。ブルース・リーの兄弟、サミー・リーというギミックで大人気となる。

そんな佐山サトルを変えたのは、「お前はトラになれ」という会社の命令だった。梶原一騎や、新アニメとのコラボでタイガーマスクに変身させられた。何度も帰国の命令があり、渋々承知した。彼に用意されたマスクは、まさに布切れ同然のものだった。マスクの発注を忘れていたのだ。急いでマイクをつくるのに関わった人物の一人は、のちにバンダイの社長になる(現会長)、当時同社の若手社員だった上野和典氏である。マスクを見た姿には失笑も漏れた。しかし、この「布切れ」が佐山サトルの人生と、日本のプロレス史を変えてしまった。タイガーマスクブーム、新日本プロレスブームがやってきたのだ。

タイガーマスクは結局、2年しか活動していない。佐山サトルは電撃退団し、総合格闘技シューティング(現修斗)の立ち上げなどを行った。彼は天才だ。彼はプロレスに新たなムーブをもたらしたし、ブームを起こしたし、総合格闘技を進化させた。現在、世界的にMMA(総合格闘技)として行われているもののルールには佐山サトルが当初、シューティングで構想していたことが、大きく影響を与えている。

会社が用意したスター街道であり、エリートコースのように見えるが、彼にとっては、いやいややった仕事である。しかし、あの「お前はトラになれ」という指令、そして「トラの布切れ」がなかったら、彼はここまでビッグになったのだろうか。彼ほどの天才なら、もし徹底してあの指令を拒否していても、スターになったかもしれない。しかし、やらされた仕事で、彼は花開いたのだった。そして、いちプレイヤーとしては、タイガーマスクは佐山サトルにとって、間違いなく輝ける時代だった。

「やらされた仕事こそ天職かもしれない」というのは私の座右の銘なのだが。会社員をやっていても、自分の目の前に「トラの布切れ」が置かれる瞬間がある。これを冷や飯と捉えるか、チャンスと捉えるか。変身させられることを受け入れる勇気も時には必要だ。

昭和プロレス正史 上巻
斎藤文彦
イースト・プレス
2016-09-17


最後にお知らせ。斎藤文彦氏との公開対談が決定した。いちプロレス少年としては夢のような企画である。ぜひ、来て頂きたい。

10月17日(月)の20時より下北沢B&Bにてゴング
斎藤文彦×常見陽平「プロレスって何だ?~昭和プロレス、平成プロレス、そして未来のプロレス~」『昭和プロレス正史』(イースト・プレス)刊行記念
http://bookandbeer.com/event/20161017_bt/

そして、以前、『如水会報』(一橋大学のOB組織の会報誌)に寄稿した、私がいかにプロレスが好きかという想いを綴った原稿を再録しよう。2015年春の原稿だ。

アラフォー男子、リングにかける 国立と一橋とプロレスと私

常見 陽平
(平9商・26修社)

勝った・・・。
ゴングの音を、兼松講堂の前で聞いた。二〇一四年の一橋祭の中夜祭で、私は学生プロレスのリングに上がっていた。齢四〇にしてOB戦に参戦した。
相手のブランコ・オギーソ(本名非公表 平3経)から三カウントを奪った。セコンドの中川淳一郎君(平9商)、手島浩己君(平11商)、プロ格闘家の青木真也選手と一緒に勝利を喜んだ。
「中年が、何を馬鹿なことやっているんだ」
そんな野次が飛んできそうだ。この手の批判には慣れっこだ。プロレス者は、馬鹿にされる運命なのだ。
「なぜ、ロープにふったら戻ってくるのか?相手の技を受けるのか?」
君たち、想像力が貧困ではないか?心にゆとりをなくしてないか?
小学校時代、テレビの「ワールドプロレスリング」で私はプロレスに目覚めた。「強くなりたい」と思った。
離れていた時期もあったが、受験生の頃に、息抜きにプロレス中継を見て、また熱くなった。カウン二・九で返すレスラーの姿に自分を重ね、偏差値四〇台から現役合格。受験の時も「猪木ボンバイエ」と心の中で連呼していた。
上京後、私は一橋大学世界プロレスリング同盟の門を叩いた。「プロレス学部」卒だと言っていいほど、のめり込んだ。身体も細く不器用な私は、興行のプロデュース、会報誌の発行などで力を発揮した。動員数を塗り替えた。
努力は、誰かが見ている。人生の親友と出会った。前出の中川君は大学二年の秋に学内で私に声をかけてきた。
「君と友達にならないと、大学生活がもったいないと思ったんだ」
中途入部してくれた。彼や仲間たちと一緒に、馬鹿なことをお腹いっぱいやった。野次は歓声に変わっていった。
引退試合で私はこう言った。
「強くなりたいなら、体育会に入った方がいい。モテたいならテニスサークルに入った方がいい。でも、僕は強いとかモテるとかよりも、一番、ドラマチックな男になりたかったんです」
あの時の拍手は忘れられない。この試合とマイクアピールは私の卒業論文のようなものだった。
九七年に社会に出た私は、転がる石のように生きてきた。リクルート、バンダイ、ベンチャー企業を経て一五年間のサラリーマン生活をいったん終え、二〇一二年から二〇一四年にかけて社会学研究科の修士課程で学んだ。サラリーマン時代から作家デビューしていたが、執筆活動、講演活動、大学の非常勤講師をしながら通った。納得のいく修士論文を書けず、評価も芳しくなかったが、なんとか卒業した。
私は今、四〇歳だ。三九歳で他界した父よりも長く生きてしまった。リングに戻ることは、私にとっての原点を確認する行為だった。現役のプロレスラーにトレーナーをして頂き、肉体改造に取り組んだ。現役部員とともに、練習もした。家族も説得した。
反省点はある。スタミナが切れた。噛み合わなかった。とはいえベストを尽くしたと断言できる。電波投げ、パンツドライバーなどの必殺技や、目潰し、金的、イス攻撃など反則技を受け続け、約一〇分間、よく闘ったと思う。
当日、私の参戦がアナウンスされると、国立市民から「常見さんか!」という声が上がった。会場でも話しかけてくれた人がいた。
社会科学の殿堂、知と業のフロンティア一橋大学で、そして美しい文教都市国立市で、学生プロレスが続き、愛されている。これこそ自由であり、豊かさなのだと思う。活動を休止した時期もあったが、復活した。みんな、あたたかく迎えてくれた。
四月から千葉商科大学国際教養学部の専任講師に就任する。堅気に戻るので、馬鹿なこともしづらくなるが、これからもプロレス者として生きたいと思う。社会とプロレスし続けよう。
学生プロレスを観てくれていた皆さん、あの頃の無邪気な笑い、熱い想いを忘れていませんか?
私は、大丈夫ですよ。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2016年10月6日の記事を転載させていただきました(アイキャッチ画像は初代タイガーマスク、佐山サトル氏の公式サイトより編集部引用)。転載を快諾いただいた常見氏に心より感謝申し上げます。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。