10月7日の日本経済新聞の「大機小機」に書かれたペンネーム「三剣」氏の「おとなしい政治家たち」に強い違和感を覚えた。
先月26日、安倍晋三首相は所信表明演説で「自衛隊員らに心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけた例の話で、自民党議員らが起立して拍手で応じた。
これに対する野党の批判に首相は「何が問題なのか。米議会ではよくある」と反論した。私は「当然ではないか」と当ブログで安倍首相を支持、野党に対し「中国、北朝鮮の軍事攻勢に危機感がない」と批判した。ところが、三剣氏は安倍首相に拍手した自民党議員を「おとなしい政治家たち」と難詰しているのだ。
衆参両院で多数を勝ち取り、高支持率を誇り、総裁任期延長で20年東京五輪時にも在任しているとの見方もある安倍首相だ。衆院での拍手の渦は、向かうところ敵なしの首相に議会がなすすべもなく調子を合わせたのが実情ではないか。……異論を唱えたのは小泉進次郎自民党議員ぐらいで、「あれはおかしい。なんか自然じゃない」。その小泉氏も「びっくりしてつい立っちゃった」と言う。 国民の前にさらけ出されたのは、ポスト安倍の権力闘争のエネルギーすら発せられない「おとなしい政治家」たちの姿だ。
「平和が何によって維持されているか」をわかっていない現在の日本のリベラル派の驚くべき世界とのズレを感じざるをえない。だが、そう感じた人は少ないのかも知れない。
軍人尊重のような安倍首相の姿勢そのものがすでに問題であり、それに反論できない自民党議員を「おとなしい政治家」と見るリベラル派の「平和主義」に賛成する日本人の方が多いのではないか、と思えるからだ。
本来、政治家は国家・国民の安全を守るという点について、「おとなしく」あってはならない。自衛隊や海上保安庁の苦労に感謝する安倍首相に拍手を送るのは望ましいが、それだけで終わったら「おとなしい」政治家なのである。
本当は北朝鮮に拉致された被害者を実力で取り戻す策を考え、時にそれを実行に移す者でなくてはならない。その意味では拍手を送らず批判した政治家はもとより、拍手を送った政治家もその限りなら「おとなしすぎる」政治家と批判されねばならない。今はそうした政治家ばかりではないか。
ところが、三剣氏は安倍氏に拍手さえすべきではない、もっと平和路線で安倍総理と対決すべきだとなじっている。180度逆なのだ。
海外では、拉致された同胞は軍の特殊部隊を派遣して奪還するのが『普通の国家』と考えるのが常識である。中国の尖閣奪取の動きにも口で抗議するだけでなく、いざ奪おうとしたら、軍事的に対抗するのが常識である。
「非常識」国家の日本では拉致被害者を武力で取り戻すなどとんでもない、どころか、そのアイデアさえわかない。昔はそうした「平和主義者」は「腰抜け」と呼ばれた。隔世の感がある。
そもそも拉致された同胞を「話し合い」で取り戻せるのか? 軍隊を派遣 して奪還するのが「普通の国」ではないのか? 軍事攻勢をかけてくる中国のような隣国に対しては口で抗議するだけでなく、軍事的に対抗する、むろん簡単ではない。だが、その準備を今からしておく。不測しているならば、早急に軍事力を増強する。
それが常識だろう。でなければ、中国など他国に軽くあしらわれる。実際、そうなっているではないか。
それを、きちんと見ようとせず、大手メディアも等閑視している。見て見ぬふりをしている。しかも「それでいい」と思っている。そうせずに少しでも軍事色を強めようとする安倍総理に対峙しない政治家を「おとなしい」となじる。それが三剣氏のようなリベラル・コラムニストである。
西尾幹二氏はこの現象を(第2次大戦の敗戦による)「軍事的知能」の喪失とみる。
真実と向き合わず、無知ゆえの安心の上に成り立っている虚妄の平和、しかし、どこか隙間風のような不安が絶え間なくつきまとう、私はそんな状態を「平和の猥褻(わいせつ)感」と呼びます。恥ずかしいという感覚がないのです
唯一の救いは安倍首相が高支持率を得ていることだ。「どこか隙間風のような不安が絶え間なくつきまとう」ために、国民は安倍首相の積極性を支持しているのである。三剣氏はそれを「望ましくない右傾化」と考えているようだ。救いようのない能天気である。