今日のタイトルは読みにくいと思います。「ぶんぽうりせき」と読み、中国の故事成語であります。「人心が君主から離れ、ばらばらになること。また、組織などがくずれて、散り散りばらばらになること」(Goo辞典)とあります。中国の春秋時代、孔子が国盗り合戦をしている最中を見て自分の領土の民衆が落ち着いていないのに他国を攻めるのはよくない、というところから来たようです。
統治とはどうあるべきか、なかなか難しいものです。統治者と民意が完全一体になることはまずないのですが、被統率者は統治者についていきたいと思わせるドライビングフォース(牽引)が必要です。それはカリスマ性であるかもしれないし、剛腕であるかもしれません。但し、そこには任期なり健康上の問題など常に賞味期限がついて回るというのも事実です。
統治にもいろいろあります。私のように極小会社を少人数で廻して小山の大将になるのも統治ですし、大企業の社長になって何万人もの社員のトップに君臨するのも統治、そして国家のトップに立つことは一般的に現代社会では最上級の統治になります。
日本が統治において比較的まとまっていたのは天皇を中心とした国家のフォーメーションがあったからでありましょう。武家政権があった時代においても朝廷に対する一定のリスペクトはありましたし、豊臣秀吉が近衛家の猶子となり、自分の地位固めをしたのはその一例でしょう。これは実務をつかさどるのが誰かを別にして天皇の存在はそれだけ求心力があり、且つ、賞味期限がないという点で特例ではないでしょうか?これが日本人がぶれない大きな理由の一つであろうかと思います。
さて、分崩離析の本家、中国で習近平国家主席の苦悩が日経に掲載されています。あるインターネットに流された情報について「…習がトップに就いた2012年から14年まで、苛烈な『反腐敗』運動の目新しさから大衆人気も盛り上がった。官僚らも文句を抱えながらも、従うしかなかった。だが、15年に一変したという。『反腐敗』をはじめとする習の指示は、実際上無視された。聞くふりをして誰も聞いていない。そして誰も仕事をしないので、経済もどんどんおかしくなっている」とあります。
北朝鮮はどうでしょうか?脱北者が増える中で幹部の脱出も目立ちます。最近では秘密警察の高官まで逃げたと報じられています。
統治がうまくいかなくなった時、最後に取るのが「やぶれかぶれ」の手段である場合も多く、その時には冷静な判断力はすでに失っているとも言えます。北朝鮮の核攻撃の警告などはその一端だと思います。
民間の場合はどうでしょうか?サムスンのノート7について初めの発火があった際、250万台の修理のオファーは実に手際よいものでした。韓国らしい力づくのメッセージです。しかし、技術は複雑化し、発火原因が十分に検証されないままの処置は同社にとって高いものにつきました。これも分崩離析のようなもので新しいバッテリーを供給し、発火事件を収め、一日も早く新製品を売り込むことに集中しすぎた結果、従業員の多くは原因を考えるという余裕をなくし、本来あるべき頭脳集団の良さを引き出せなかったとも言えます。
メディアを賑わす小池百合子氏。都民はやんやの喝采で応援していますが、私が気になるのは都庁内部。それこそ、上述の習近平氏のような裸の王様になりやしないか、心配でなりません。それは小池氏のスタイルがあまりにもフレッシュで都庁の体質には刺激が強すぎることで副作用が出やすいということです。今はまだ初期ですから吸収できるはずですが、このペースで行けば必ず声が上がってきます。
統治者の理想と非統治者の現実のギャップとはなかなか大きいものです。近年言われる99%と1%の格差は広がる一方でありますが、統治のギャップも同様に広がっていると言えます。例えていうなら軽自動車にポルシェのエンジンを積むような事態が起きつつあると言えないでしょうか?
統治者はエンジンの出力を下げるか、ボディの剛性を上げる作業が必要です。私には役所体質をまずはぶち壊し、体質改善を進めることが長く安定する秘訣だと思います。安倍首相のうまさはそこにあるといえましょう。
今日はこのぐらいで。
岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 10月17日付より