古典日本型の人事報酬体系といわれるものは、高度経済成長に形成され、安定成長へ移行した1980年頃までに一般的に定着していたものと思われるが、そこでは、期待貢献への処遇の要素が極めて強く、当然に、事後的には、期待と実績との差が生じていたはずなのである。
ただし、期待通りに、あるいは、期待以上に、企業全体が成長しているときには、個々人の次元における期待と実績の差よりも、全体として、期待以上の実績が生まれていることのほうが重要だったのだから、特に、大きな問題はなかったのであろうし、古典的制度のなかにも、それなりに、期待と実績の差を調整する仕組みがあったのである。
つまり、実績が期待に追いつくまでの時間を非常に長くとっていたのである。実績が追いつかない人は、当然のことながら昇格が遅れてきて、それでも、実績が伴わなければ、昇格が見送られて、低い資格で滞留し、そのまま定年になってしまうこともあったのである。昇格と昇給は連動するのだから、このような昇格の運用によって、しかも、定年までという長い時間のなかで、生涯報酬が生涯貢献に近づくように、調整できたということである。
実際、定年までの長い時間のなかでは、経験による習熟や熟練もないわけではなく、ある程度の規模の企業であれば、職務も多様だから、まさに適材適所の考え方で、適性と能力と過去の行動様式や実績に見合うように、資格と職務を用意できる場合が多かったと考えられるのである。
今からみれば、人に甘く、生温いように感じられるかもしれないが、こうした方法により、貢献と報酬を均衡させるように工夫することで、日本型の制度も、それなりに機能していたのだ。
ただし、このような人事制度の運用は、定年までの勤続を前提にできる、即ち、絶対的な人員数を維持することが可能だったからこそ、機能し得たのである。故に、安定雇用を維持できなくなり、絶対的な雇用量の調整が避け得なくなったとき、日本型の古典的人事制度は、崩壊せざるを得なかった。
当初は、雇用量の削減は必ずしも容易ではないので、総人件費管理の考え方のなかで、実績に応じた報酬格差を大きくする方向、即ち、成果の高い人を処遇する原資を、そうでない人の処遇を削減することで捻出する方向へと、程度の差こそあれ、多くの日本企業で制度改革がなされはじめたのだ。いわゆる成果主義への流れだ。
その上でなお、雇用量の維持について困難と考える企業が増えてきたとき、雇用の調整を、仕組みとして、人事制度に取り込むことになる。露骨に企業の立場からいえば、辞めさせやすい制度、上品に従業員の立場からいえば、自己選択的に、辞めやすい制度への移行である。
古典日本型人事制度の崩壊とは、即ち、人材の流動化といことである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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