天国のピート・バーンズに奉げるYou Spin Me!

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写真はインタビューにご協力いただいた山本勝則氏

1980年代、独創的なダンス・ヒットを叩き出した、Dead Or Aliveのボーカル、ピート・バーンズが、10月23日に心臓発作で亡くなった。57歳の若さであった。

Dead Or Aliveは、1980年中盤以降、ストック・エイトキン・ウォーターマン(Stock Aitken Waterman)のプロデュースを受けるようになってから、ダンス・ミュージックに音楽性をシフトさせていく。不朽の名曲「You Spin Me Round」は1985年に米ビルボードで11位を記録する。日本においては、バブル景気の真っ只中、ディスコ・ブームに乗り、イベント系サークルが開催するパーティで定番の音楽だった。

今回は、DJの山本勝則(以下、DJ KATSU)氏に、緊急インタビューをおこなった。ピート・バーンズを語らせたら彼の右に出る人がいないので相応しいと判断した。DJ歴は約30年の大ベテランである。MAHARAJA本店、麻布Byblos、青山Byblosなどのメジャーを経て、2003年にMAHARAJA TOKYO(現在のMAHARAJA六本木)にてレジデントDJを再開する。幅広い年齢層に支持されているマルチDJでもある。

■日本のディスコシーンを席巻したピート・バーンズ

――ピート・バーンズの思い出とは。訃報をどのように受け止めたのか。

「彼らを初めて目の当たりにしたのは、新宿の『New York New York』でした。初めて買ったレコードは彼らを代表する『You Spin Me Round』。周囲では、マイケル・ジャクソンやマドンナの人気が高かったのですが、私は最初からDead Or Aliveでした。Dead Or Aliveがディスコシーンを席巻すると確信していたのです。」(DJ KATSU)

「その後、日本武道館ツアー、シニータとカイリーミノーグとの『MEGA DISCO DOME in 東京ドーム』が開催されます。Dead Or Aliveの中心人物であり、ヴォーカリストでもあるピート・バーンズ本人に会ったのは六本木Velfarreでした。」(同)

――漆黒のソバージュがかったロングヘアに妖艶なメイク。個性的なファッションも話題を呼んだ。さらに外見とは裏腹な太い低音ボイスも印象的だった。2010年以降は活動自体が減っていった。2011年に活動休止をするが、ピート・バーンズとスティーヴ・コイの活動が最近まで続けられていたことを知る人は少ない。

「80年代のイベントではヘビーローテーションの彼らの楽曲。そして今朝、訃報を聞いて目が覚めました。30数年間聴き続けてきて、DJライフの四半世紀を共にしてきて色あせなかったアーティストの一人でした。ピート・バーンズは亡くなりましたが、これからもDead Or Aliveの魅力を広く伝えていきたいと思っています。」(DJ KATSU)

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写真はピート・バーンズの直筆サイン(山本勝則氏提供)

■バブルの風景に似合うのはDead Or Aliveだった

――ジュリアナ東京を知っているだろうか。テレビ番組でバブル経済の場面になるとジュリアナ東京とテクノハウスの映像がかかることが多いがこれは間違っている。ジュリアナ東京OPENは1991年5月だからバブル崩壊後になる。

バブル経済とは、プラザ合意後の、1986年12月~1991年2月迄を指す。絶頂期の1989年には実体経済としては説明し難い経済波及を促し、その後は総量規制等の影響で衰退する。株価は、1989年12月末の3万8915円(最高値)から、1990年10月には2万円割れと10ヶ月で半値まで落ち込む。このような経済全体の流れを「バブル崩壊」と称する。

ところが、1990年10月に日経平均株価が1989年12月末の半分に落ち込んでいるといっても、1990年10月にバブル崩壊を取上げた経済誌などなかった。生活環境が落ち込んだことも感じなかった。これは多くの人が実感したはずだ。

「バブル崩壊」は、ある瞬間に発生した現象ではない。「バブル崩壊=体感」ができたわけではない。誰もが、バブル崩壊と気がつかず、数年間をかけて生じてきた社会現象である。1992年くらいまでは、景気は持ち直すという楽観的ムードが漂っていた。そのような時期に、OPENしたのがジュリアナ東京である。

「ジュリアナ東京のOPENにあたっては、出店する条件が容易ではなかったともいわれています。ジュリアナ東京の成功のポイントは様々ありますが、普通のサラリーマンやOLが遊べるディスコというコンセプトが明快でした。」(DJ KATSU)

「ジュリアナ東京がOPENする前は、オールナイトフジという深夜番組が人気で、学生サークルは時代の最先端として重宝されたものです。ところが、ジュリアナ東京のOPEN時には学生サークルは衰退していました。バブル崩壊とともに、学生サークルのいい加減さを知った企業がドンドン離れていきました。」(同)

■「Dead Or Alive」への差し替えを推奨したい

バブルの頃は企業もいい加減だった。年中、渋谷、六本木にあったディスコでのダンパ(ダンスパーティの略。いまは死語)が乱立していた。TDLを貸切って、学生が数万人集まることもあった。広告代理店や有名企業がスポンサーに付くから景品も多種多様になる。

目録しかない海外旅行、海外から自費で運ばなければいけない車、利用価値のない無人島の権利、一般道を走れない自転車など盛りだくさん。なお、今後、テレビ番組でバブル経済の場面でジュリアナ東京とテクノハウスの映像を流すことは控えていただきたい。なぜならば間違いだからである。今後は、「Dead Or Alive」を推奨したい。

しかし、ディスコシーンで活躍する人物は早世だと思う。音楽やクラブ自体が短命だからかも知れないが、そこに介在する何らかの意志を感じざるにはいられない。メル&キム(メル24歳)、ファルコ(40歳)、ディバイン(42歳)、フレディ・マーキュリー(45歳)、ローラー・ブラニガン(47歳)、ホイットニー・ヒューストン(48歳)、マイケル・ジャクソン(50歳)、プリンス(57歳)、やはり早世である。

今回、緊急インタビューとして、DJの山本勝則氏にご協力をいただいた。この場を借りて御礼を申し上げたい。

尾藤克之
コラムニスト

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