ローマ法王フランシスコは27日、ゲスト用宿泊場所「サンタ・マルタ」での慣例の朝拝で「神は泣いている」(バチカン放送独語電子版「Gott weint」)という題目の説教をした。神が泣いているという表現は決して新しくはないが、南米出身の明るいローマ法王が「神は泣いている」というドラマチックな表現を取らざるを得ないことに、神が置かれている現状がどれだけ深刻であり、その息子たち、娘たちの現状がどれだけ悲惨であるかを端的に示唆しているといえるだろう。
フランシスコ法王は「戦争、金銭崇拝、人間の無知に神は涙しておられる」という。同法王の場合、人間となられたイエスの中にその涙を発見している。イエスはエルサレムに近づいた時、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた。もしお前も、この日に、平和をもたらす道を知っていさえいたら……しかし、それは今お前の目に隠されている……それは、お前が神の訪れの時を知らないでいたからである」(「ルカによる福音書」19章)や友ラザロの死(「ヨハネによる福音書」11章)を例に挙げている。そして自分の懐から去った息子、娘が再び戻ってくるのを神は涙しながら待っているというのだ。
イエスの涙から2000年後、現代人の多くはもはや、神が存在するかどうかなど真剣に考えなくなってきた。なにも非キリスト教文化圏だけの話ではない。欧州のキリスト教社会でも神は心休める状況では無い。イギリスから始まった「神はいない運動」が広がらなくても、神はもはやその存在を感じられないほど、追い払われている。ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)の出身国ポーランドでも無神論的、世俗的な風は吹き荒れ、カトリック教国のポルトガル、アイルランド、オーストリアでも信者たちは教会に久しく背を向けている。
アイルラド教会などは聖職者の未成年者への性的虐待事件の影響を払しょくできないでいる。昨日起きたことを直ぐ忘れて新しいことに心が向かう現代人が、聖職者の不祥事に対しては忘れない。オーストリア教会の場合も教会最高指導者だったグロア枢機卿の未成年者への性的犯罪が発覚した後、信者の教会離れは今日まで絶えることがない。もはや、教会では神の涙だけではなく、神のプレゼンスすら感じられなくなってきた。
「神が泣いている」かどうか、現代人はもはや分からなくなったが、われわれが泣いていることだけは間違いない。物資的に恵まれた人生を送った人も、その富や名声を死後の世界まで持っていくことはできない。人は多分、多くの悲しみと「こうしておけば良かった」という後悔の念を感じながら確実に「死の日」を迎える。
自分の涙に忙しく、他の人の涙にまで思いがいかない。ましてや「神の涙」といわれても、多くの人はもはや戸惑いを感じるだけではないだろうか。
聖ペテロが伝道したシリアのアレッポ(Aleppo)は現在、戦闘の真っ直中にある。子供や女たちが犠牲となっている。アフリカでは多くの人々が今なお、飢餓で苦しんでいる。彼らは涙している。彼らへの関心を先ず取り戻すべきかもしれない。われわれの心が彼らの涙で濡れるならば、われわれも彼らの苦しみ故に涙することができるかもしれない。その時、微かな期待だが、「神の涙」を発見できるかもしれない、と考えている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年10月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。