通信行政の組織を振り返ってみた

中村 伊知哉

オフィスの引越しで荷物を整理していたら、村松岐夫京大名誉教授の「通信行政と産業政策」という論文が出てきたので読みました。80年代後半に書かれたものと思われます。通信自由化・電電民営化の政策決定を分析したものです。通信政策オタクの読み物です。

通信自由化・電電民営化の過程、政官財の調整・決定過程は、当時新人として政府内でつぶさに見ていたので、公社独占政策から競争政策へのウルトラ大転換のリアリティーは知っています。通信自由化、その前後の政策のドタバタは、いずれきちんと書き残そうと思います。

それよりぼくはその前の郵政省の内部メカに興味を持ちました。

通信部門は電波監理局1局だったものを、81年に経理局を廃止して2局体制となり、ぼくが入省した84年には人事局を廃止、通信政策・電気通信・放送行政の3局になり、郵便・貯金・簡保の3局と同数になって、通信と郵政とが同格になりました。

わずか3年で全国の2万郵便局20万人の経理と人事を仕切る2局を廃止し、海のものとも山のものともわからん通信政策の2局を増やす。深刻な組織抗争があったことでしょう。前者は全国の政治家とつながった老獪な世界、後者は東京の若いインテリの世界。どうやって実現したんだろう、とぼくは思っていました。

村松論文は、やはり省内に年長者と若手の対立があったとします。その上で、若手官僚が力を発揮したことを分析します。その若手官僚メンツはだいたいわかります。ぼくが入省した頃の中堅のかたがた、今はもうOBになった人たちです。

ただ、ぼくがなるほどと思ったのは、それ以前から通信行政と「郵貯」の部門間で人事交流が盛んに行われていて、それが効いたという指摘です。

貯金局は田中角栄・金丸信ら郵政族と同盟にあり、その協力で通信行政の大仕事をなしたと指摘しています。確かに両局間の人事交流はあったし、なぜか貯金局は協力的でした。初代電気通信局長は貯金局長から異動しました。これは新人からみても、序列を覆すおおごとだと感じました。

だが、とすると、かなり以前から、次官級の省幹部たちが、ぼくが入省したころにはもうOBとなっていた先人たちが、もはや通信への大移動を理解し決定していた証左です。大仕事をなすときは、リーダーも若手も、サムライが揃っている必要があるということですね。

村松論文は、その後の参入規制に関し、過剰競争を排して護送船団式に運用していること、通信主権を前面に出して海外の圧力に抗していることを批判的に分析しています。非市場の論理や、国内向け論理がいずれ根本問題となることを示唆しています。鋭い。

これは90年代半ば、いずれも覆りました。郵政省は競争政策を強く押し出し、世界に先駆けて規制を緩和し、外資規制も撤廃しました。これも産業を活性化し、料金を低廉化するという効果の面で、80年代の通信自由化に劣らない大きな政策だったと考えます。

こうした政策展開は、族議員の親分たちと力相撲を取っていた先人が憧れた一流官庁の所業かもしれません。しかし、若手主導のこうした行政は、政治をはじめ泥臭い世界との絆を弱めたかもしれません。

それが現れたのが90年代後半、「橋本行革」の省庁再編ではないでしょうか。

通産省主導で進んだ橋本行革で、通信行政は政府から独立(言い換えれば放り出される)、郵政省は解体という方針となりました。世界をリードする通信政策を進めてきたはずなのに、政権から「不要」とされるのはどうしたことか。

当時ぼくは担当だったのですが、先人が先を見据えて通信行政にシフトしたようなリアリティーをぼくら世代が持ち得ず、慢心して世間から乖離したことへのおしおきだったのかもしれません。

当時はまだ残っていた郵政族の議員のかたがたが中心となり、わっしょいわっしょいと政治調整が行われた結果、通信は総務省に潜り込み、郵政は民営化となりました。当初、総務省で通信部門は2局でしたが、菅総務大臣のときに3局に戻され、現在に至ります。

こういう激動に比べ、最近の通信の行政や組織は、落ち着いたものです。IoTやらAIやらで、世間は騒がしいのですが、また行政や組織を揺るがすようなことって起きるのでしょうか。OBとしては、そろそろ何かないかな、と期待しちゃったりしてます。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2016年11月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。