人情深いということ

先月14日、私は「今日の安岡正篤(716)」として次の言葉をツイートしました--利口な人間、才のある人間、意志の強い人間、それはそれぞれ結構である。それぞれ結構であるけれども、本当に正しい人には、それだけではなれない。必須の条件は人情深いということである。情というものは、人間の一番全き姿を反映するものである。

『草枕』の一節に、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」とあります。知で全てを割り切っていたならば、最早コンピューターの世界になりましょう。人間、知情意全体かつ知情意夫々のバランスを保つことが求められているのです。人間以上に知に秀で記憶力・分析力・判断力の類を有したArtificial Intelligenceが開発されたとして、それが人間に及び得ないのが情の部分だと思います。

王陽明が弟子に与えた手紙の中に、「天下の事、万変と雖も吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず」という言葉があります。これ正に王陽明が言う通りで、やはり一番大事なのは知、単なる論理ということでなしに情と合わさった理というもの、情理だと私は考えています。

人間ややもすると情よりも知の方に重きを置きがちですが、そのプロセスとして必要なのは論理で考えて行き、最終結論を下す前に情理で再考するということです。例えば『論語』の「子路第十三の十八」に、「吾が党の直(なお)き者は是(こ)れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り」という一節があります。

之は、「吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す…私どもの所には正直な者がいて、父親が羊を盗んだのを自ら告発しました」という楚の葉県(しょうけん)の長官、葉公(しょうこう)の言を聞いて、孔子が答えたものです。つまり孔子は、「私どもの所の正直というのは、それとは違います。父は子の為に罪を隠し、子は父の為に罪を隠します。本当の正直とは、その心の中にあるものです」と言っているのです。

要するに親の大罪が明らかなケースは兎も角として、そうでなければ人情として最終的に親を庇う姿勢があるのが当たり前だということです。『孝経』の中にも「孝は徳の本なり」とあるように、道徳の根本「」がある意味否定されてしまいますと、結局全てが道徳として成り立たぬようになるわけです。情というのは、それぐらい大事なことなのです。

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