第4代目国連事務総長(1972年1月~81年12月)として任期10年間を務めたクルト・ワルトハイム氏が与党国民党の支持を受けてオーストリア大統領に選出されて今月で30年目を迎えた。同氏の政治活動は第2次世界大戦のナチス・ドイツ戦争犯罪容疑を受け、世界のメディアから激しいバッシングを受けるなど、波乱の歩みを余儀なくされた。同氏の大統領就任から30年を過ぎて、オーストリア代表紙プレッセがワルトハイム氏関連特集をするなど、今改めて同氏の歩みに関心が集まっている。
ワルトハイム氏の大統領選出馬が報じられると、「世界ユダヤ人協会」ばかりか、欧米主要国が激しく反対し、世界のメディアを巻き込んだ反ワルトハイム陣営が構築されていった。ワルトハイム氏が大統領に選出されると、世界の主要国はオーストリアとの外交接触を拒否し、外国国家元首のウィーン公式訪問は途絶えていった。同氏は大統領時代、“寂しい大統領”と冷笑された。
同氏への批判のポイントは、同氏が通訳将校として派遣された旧ユーゴスラビア戦線で、ナチス軍の虐殺行為に関与したかどうかだったが、その質問には既に答えが出ている。国際戦争歴史学者たちが調査した結果、「ワルトハイム氏が戦争犯罪に関与したことを実証する情報は見つからなかった」と明らかにしているからだ。ワルトハイム氏自身が後日出版した著書『返答』の中で、「自分は戦争犯罪には全く関与していない。通訳将校としてその義務を果たしたのに過ぎない」と説明したが、反ワルトハイムの中傷・誹謗報道の前には無力だった。
著名なナチ・ハンターのサイモン・ヴィ―ゼンタール氏も、「ワルトハイム氏がナチスの戦争犯罪に関与した証拠はない」と認めたが、ワルトハイム氏の戦争犯罪容疑報道だけが独り歩きし、激しいメディア攻撃が続いた。
それでは何故、国際社会はワルトハイム氏の過去問題をあれほど執拗に批判していったのか。その答えは、戦争終了後に公表された「モスクワ宣言」(1950年)にある。そこでは「オーストリアはナチス戦争犯罪の加害者ではなく、犠牲者であった」と記述されている。オーストリア国民は戦後、その記述を盾にナチス戦争犯罪の関与という批判をかわしていった経緯があるからだ。
数百万人の同胞を失ったユダヤ民族は「オーストリアは明らかに加害者であった」と主張し、戦争責任を回避するオーストリアに強い憤りを感じてきた。そのため、ワルトハイム氏の過去問題が浮上した時、ユダヤ人が牛耳る世界のメディア機関が一斉に反ワルトハイム・キャンペーンを張っていったわけだ。
ワルトハイム氏は6年間の大統領任期(1986年~1992年)を終えると再選出馬を断念した。著書『返答』の中で、同氏はナチス戦争犯罪容疑を受け、家族が苦しんできたことを明らかにし、再選を断念した主因が家族への配慮からであることを示唆している。
当方は1994年11月、大統領退陣した直後のワルトハイム氏と45分間、単独会見したことがあるが、同氏は会見前に「インタビューの前に君の質問内容を教えてほしい」と述べた。同氏は戦争犯罪問題を追及されるのではないかと懸念していたことが分かった。
当方は当時、国連改革の見通しを10年間国連事務総長を務めた同氏から聞き出したいと考えていたので、その旨を伝えると、同氏は表情を緩め、「それではインタビューを始めて下さい」と答えた。メディアから過去問題を叩かれ続けたワルトハイム氏はメディア関係者との接触には非常に神経質であることを改めて知った。
オーストリアでは大統領決選投票が行われたばかりだが、「緑の党」前党首のアレキサンダー・バン・デア・ベレン氏に敗北した極右政党「自由党」の大統領選候補者ノルベルト・ホーファー氏は左派リベラル勢力から選挙戦で常に「ネオナチ」と酷評され、メディアから批判を受けてきた。そして「ホーファー氏が欧州初の極右政党大統領に選出されれば、オーストリアは欧州から再び孤立する」といった懸念の声すら欧州のメディアで報じられた。
ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪に対しては毅然とした姿勢で批判しなければならないし、極右問題についても、その社会背景について慎重な分析が必要だ。同時に、メディア機関も冷静な報道姿勢が求められる。メディアが単なるプロパガンダ機関となってしまってはならない。ワルトハイム氏の過去問題は今もメディアの報道姿勢を考える上で重要な教材だ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年12月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。