交渉心理学の入門書です。
人通りの途絶えた極寒の夜、貧しい花売りの少女が一人佇んでいました。手には売れ残った30本のカーネーションを抱えています。そこを通りがかった億万長者の紳士が運転手に車を止めさせて、車の窓を開けて少女から3本のカーネーションを買いました。
1本300円なので、1000円札を渡した紳士は100円玉のお釣りを受け取りました。紳士の財布には現金だけで100万円以上は入っていたので、何の痛痒も感じることなく30本の花すべてを買ってあげることが出来ました。現に、彼は愛犬へのお土産に3万円の玩具を買ったばかりです。
この紳士の行動は称賛すべきことでしょうか?
この問題は、人間の幸福とか満足度を経済学的にどのように考えるかということと関連してきます。
経済学では、幸福度や満足度を「効用」と呼びます。あなたが、りんご30個をもらう場合とみかん50個をもらう場合の満足度を、同じレベル10であると仮定します。レベル10の満足度は、りんご5個とみかん40個でも同じ、りんご10個とみかん30個でも同じ、りんご20個とみかん20個でも同じ…と仮定すると、レベル10の満足度を結んだ曲線が出来上がります(りんごもみかんも細分化できるとします)。これを「無差別曲線」といって、同線上のどの点をとっても満足度が同じということになります。
しかしながら、この「効用」というものは、人によって状況によって異なってくるのです。
一般的に、ダイヤモンドの値段はペットボトルの水よりも遥かに高価です。しかし、砂漠の真ん中で遭難して喉がカラカラになっている時に、ダイヤモンドと水のどちらかをあげようと言われれば、ほとんどの人が水を選ぶはずです。砂漠の真ん中で命の危機にさらされている場合は、ペットボトルの水の方がダイヤモンドより「効用」が高いのです。
水がなければ生きていけないのは文明社会のど真ん中でも同じです。しかし、喉の渇きを癒やし、お風呂にも入れ、ウオッシュレットも使える程度の水があれば、それ以上の水があってもさほど嬉しくないでしょう。生ビールの最初の一杯の幸福感と五杯目の幸福感が異なることは、ビールを飲む人であれば容易に想像が付きますよね(一杯目の方が遥かに幸福です!)。
このように、必要不可欠な状況での水の「効用」は極めて高いのですが、ペットボトル100本から101本に追加された場合の「効用」はほとんど変わらなくなってしまいます。生ビールだったら、無理やり飲まされる十杯目は「効用」がマイナス(つまり不幸)になるかもしれません。これを「限界効用逓減の法則」と言います。
最初の質問に戻りましょう。
貧しい花売りの少女にとって900円は、砂漠の真ん中でもらった水に等しい「効用」があるかもしれません。温かい食事で空腹を満たすことによって、凍え死なずに済むかもしれません。明日の朝食も食べられるかもしれません。
億万長者の紳士にとって、900円というはした金が増えようが減ろうが「効用」は変化しませんが、少女の「効用」は天文学的にアップするのです。ですから、紳士の行為は間違いなく称賛すべきことなのです。
かように、「効用」つまり幸福感や満足度は、置かれた状況や各人の好みによって全く異なるケースが少なくありません。
ひとりでも多くの人々の幸福度や満足度をアップさせるのが国家や政府の役割です。どうすれば全体効用をアップさせることができるかを考えるのが厚生経済学の使命です。しかし、幸福感や満足度が各人の置かれた状況や好みによって全く異なるとしたら、何を持って全体効用のアップと考えるかは大変な難問かもしれません。
豪邸に住んで毎日のように世界中の美味珍味を味わっても、孤独感にさいなまれて不幸のどん底にいると感じる人もいれば、6畳一間の安アパートで安価な鍋料理を恋人と二人で食べることで最高の幸福感を味わう人もいるでしょう。
幸福感や満足感はその人の「心の持ち方」によって左右されます。同じ職場で机を並べて同じ仕事をし、財産も家庭環境も同じような2人でも、一方は自分がとても不幸だと感じ、もう一方は自分をとても幸福だと感じる場合もあります。
幸福感や満足感を、学問でざっくり測定することは…おそらく出来ないのでしょうね。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2016年12月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。