老人ホームをボランティアが訪問します。ボランティアでたまに来る人は、お年寄りにとても優しく接して話し相手になってくれます。多少のわがままも聞いてくれます。当然お年寄りはとても喜びますが、ボランティアが帰った後、その優しさや甘えを施設の職員にも同じように求めてしまうことがあります。
でも毎日毎日接している施設の職員からすると、その要求にそうそう応えるわけにはいきません。こうして、ボランティアが帰った後、お年寄り達にも施設の職員達にもストレスがたまることになります。と、まあこんな内容の新聞記事を読んだ記憶があります。
もちろんお年寄りが悪いわけではなく、ボランティアをする人達の善意も疑う余地はありません。また、この種の問題をよく理解し、既にクリアしている、それこそ「プロ」のボランティアの方も大勢いらっしゃると思います。でも、ボランティアをする側と、その善意を受ける側との意識のすれ違いが起きてしまうことも間々あるようなのです。
阪神大震災の時も東日本大震災の時も、多くの援助物資が滞留しました。また、大勢のボランティアが一度に集合してしまったため、その人たちを受け付ける窓口が大混乱で収拾がつかなくなり、援助活動そのものにも支障をきたしてしまいました。援助の食料が腐って大量に廃棄処分されたこともありました。本来まぎれもなく善意だったはずのものが生かされなかったばかりか、かえって被災現地に余分な仕事を増やすことになってしまったのです。
善意は、それを伝える側にとっては気持ちのよいものです。自分が他人の役に立っているということを実感できた時の充足感や自尊感は、何ものにも代え難いものがあります。相手からは必ず感謝され、他人からは尊敬されます。ところが、善意を伝える側のこの優位性や、知らずのうちの優越感を十分に自覚していないと、善意は空回りし、かえって相手の尊厳を傷つけることもあります。場合によっては迷惑にもなりかねません。善意は独り善がりになる危険性を、時として内包しているのです。
小は「席を譲る善意」から、大は「アメリカの善意」まで、善意は主の気持ちとは別になかなか厄介なものです。善意がおっかなびっくりになってはいけませんが、自分(たち)の善意がひょっとして「押し売り」になってはいないか、時には振り返ってみることも必要ではないでしょうか。
お正月休みに年1回の帰省をして、実家の老親にたまの親孝行を尽くした人もたくさんいたと思います。でも、老親と一緒に住んで普段面倒を見ているお嫁さんの気持ちは、本当のところはどうだったのでしょうか。
天野 信夫 無職(元中学教師)