「世界と日本がわかる 最強の世界史」(扶桑社新書)が思いのほか好調で重版も決まった。ともかく、本の著者にとっても編集者にとっても重版に勝る喜びはないのだ。だいたい初版が7割売れれば採算ラインとかいうが、重版がかかると採算ラインは確実に超えるし、次の出版依頼も来る。
そして、書評など出てくると、著者としては意外なところが好評だったりすることが分かる。
そういう意味で今回の本では、世界史の色んな出来事が思わぬ遠いところで繋がっていることが分かると評価してくれる人が多くいて、著者としては狙い通りで嬉しい。3月に「日本と世界がわかる 最強の日本史」を出して世界史と日本史のつながりを両方向から明らかにしたいと思う。
そんななかで、興味を持ってくれる人が多かった命題の一つが、フランス革命でも明治維新でも中国革命もみんな始皇帝が絡んでいるというということだ。
明治維新をフランス革命と同じ市民革命と見るか、前近代的な支配者の交代だというのかといった論争がかつてあった。マルクス主義史観に立つ人同士の内輪もめなんで、どうでもよいのだが、「維新」を「王政復古」(フランス語でレストラシオン)と訳してしまうと、ナポレオン戦争後にブルボン朝が復帰したのと同じになる。一方、「革命」(レボリュシオン)と訳すのもなんとなく違和感がある。
しかし、現実に起きた統治機構の変化に着目すれば、理解は簡単なのだ。江戸時代の体制は、国土を領地や領民を私有物のように扱う諸侯の支配にまかす封建制だった。それに対して、明治体制は版籍奉還や廃藩置県の結果、中央集権的によく似たサイズの都道府県、郡(大正時代までは行政組織)、市町村という三層の地方行政組織で治める体制で、郡県制のバリエーションだ。
それでは、このふたつの仕組みの淵源はどこかというと、日本国内では、形の上では、律令制の復活だ。しかし、具体的な制度設計では、フランス革命とナポレオン体制後のフランスの制度(デパルトマンという県、アロンディスマンという郡、そしてコミューンという市町村の三層制)を導入したものでもあった。
さらに、始皇帝が始めたものでないが、隋の文帝が創始した科挙という学力試験で官僚を選ぶ方法も、フランス革命と明治維新後のヨーロッパや日本での公務員制度の根幹だ。
そして、このふたつがどこでつながるかといえば、日本古代の律令制は中国で始皇帝(在位前247~前210)によって確立された郡県制を採り入れたものだったし、フランスの地方制度も、イエズス会の宣教師によって紹介された理想化された中国の制度を参考に構築されたものだった。
つまり根っ子は同じなのだから、王政復古にして市民革命であることはなにも矛盾はしないのだ。
そして、毛沢東は孔子は大嫌いで、始皇帝を評価していた。そのほか、曹操、則天武后、朱元璋、李自成などが名緒回復した代表だ。そんなわけで、始皇帝の亡霊は、フランス革命にも、明治自身にも、現代中国にも大きな影響を与えているのだ。
ただし、中国の歴史では、縁故主義を基調とした儒教という強烈な始皇帝の考え方と戦った勢力も健在だ。というより、漢帝国が統治のソフトとしたことで融合した。現代中国でも、21世紀に入って孔子がじわりと復権だ。数年前には天安門広場に巨大な孔子像が現れてすぐ撤去されたことはその象徴だ。現在のところでは、優れた教育者ということでは、コンセンサスとなっていて、海外で中国の諜報活動の拠点として警戒されることも多い、語学教育などの組織も孔子学院だし、ノーベル平和賞に対抗して設けられたのも孔子平和賞だ。