「Post-Truth」論は言論の自由に対する脅威だ

渡瀬 裕哉

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「Post-Truth」は「ヒラリー大統領選挙勝利」を垂れ流してきた大メディア・学識者

トランプ氏が米国大統領選挙に勝利したことで、Post-Truthという言葉が俄かに「リベラル界隈」では話題になっています。簡単に言うと、「客観的な事実ではなく感情に訴える事実らしいものが影響力を持つようになった」ことを意味するワードで、トランプ勝利はその象徴的な出来事だそうです。メディア関係者や学識者などがこの概念に飛びついて議論を始めています。

それにしても、自分が気に入らない存在を叩くために、ポリコレ的な形式を整える能力と努力に感心させられます。なぜなら、米国大統領選挙に関して言うならば、

「ヒラリー勝利確実」

こそが最大のデマであり、彼ら自身が垂れ流してきたPost-Truthだったわけですから。大統領選挙が終了するまで読む価値がない偏向報道があまりに多く、筆者と同じく大メディアの偏向報道の酷さに米紙の購読を一時中断した人も米国にもいたのではないかと思います。

「Post-Truth」論は言論の自由に対する脅威になり得る

Post-Truthを過度に強調する既存のメディア・学識者は自らが「正しい言論の擁護者」だと錯覚し、FakeNewsなどの問題性を指摘しています。しかし、明確に言えることは、これらの「正しい言論の擁護者」は「言論の自由に対する脅威」でしかありません。

彼らの多くはFakeNewsを問題視するあまり、それらを防止するために言論をフィルタリングにかける行為を擁護しがちです。または、そこまで行かなくても、Post-Truth論を盛り上げていくことで、それらのフィルタリングをかける行為を正当化する環境づくりに貢献していると言えるでしょう。

特に、既存の権威の中心(かつ、その信頼性が失われつつある)である大手メディアらは、新しいメディアの成功によって自らの権威が脅かされることに敏感です。

しかし、大手メディアも創刊当初からエモーショナルな内容が多く、なおかつ現在でも社説などを通じて自らの愚にもつかない感情を読者に吐露していることもしばしばです。これはそれらのメディアに寄稿している学識者も同じことが言えるでしょう。

いまさら「事実よりも感情に訴えかけるニュースを初めて見ました!」と言われて真に受ける人がどれだけいるのでしょうか、偏差値高いだけの世間知らずだけが信じる戯言だと思います。そして、大半の人は嘘ニュースも含めて冷静に受け止めていることでしょう。

分散化された多様な言論空間の存在が重要である

筆者は様々な意見の相違はあるものの、Post-Truthなどの言葉を使って他人の言論を封殺しようとすることを容認するべきではないと思います。

言論の自由と言論の質の多様化は表裏一体のものであり、質が高いとされる言論のみを残そうとすれば、必然的に言論の自由を制限せざるを得ません。その際のデメリットはメリットを遥かに上回ることになるのは想像に難くありません。

したがって、仮に冷静な議論を求めたいのであれば、それは言論の供給の在り方を問題視するのではなく、言論の需要者側をサポートするシステムや情報の合理的な選別を可能とする仕組みの議論を行うべきでしょう。

現在の日本で一例を挙げると、極めて脆弱な立法府の議員を支援する機能の強化、行政権と実質的に一体化した司法の改革、一部の大手メディアに対する制度的な既得権の付与の見直しなど、より多様な言論が共有される環境を整備するとともに、その選別のプロセスを効果的に行う仕組みを作ることが求められます。

Post-Truth論争は、昔からある話を焼き直して現在の言論的強者が既得権を守ろうとしている行為でしかなく、いまさら相手にするべき類の議論ではありません。まずは積み残された過去の課題をしっかり片づけていくことを優先するべきです。

プロパガンダ―広告・政治宣伝のからくりを見抜く
アンソニー プラトカニス
誠信書房
1998-11-01

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