「血とDNA」で独自性を語る中国の腐敗摘発とは・・・

加藤 隆則

中国政治のニュースは、三国志のようなドラマチックな政治闘争でもないと、なかなか人の関心を集めない。だが忍耐強く観察しているとささいな言葉が強いメッセージをもって目に飛び込んでくる。最近、ある高官の吐いた「血液とDNA」発言もその一つである。。

1月9日、習近平政権が強力に進める腐敗摘発に関し、国務院が内外メディア向けの記者会見を開いた場でのことだ。ロイター通信の記者が「党から独立した調査機関はつくらないのか」とただすと、共産党中央規律検査委員会のナンバー2、呉玉良副書記は、「国家監察体制改革の目的は、党の反腐敗工作に対する統一的指導を強化することだ。だから党の指導を受けない、いわゆる独立した監督機構は存在しない」と述べた。そして党による国家指導システムを「13億中国人民の共通認識」とし、西洋民主モデルの三権分立を否定した。ここまでは公式見解の反復だが、彼はこう言葉を続けたのだ。

「中国人は文化の自信を語り、中国文化はわれわれの(社会主義の)道、理論、制度の自信に対する最もふさわしい解釈である。われわれ中華民族の血液とDNA、われわれの文化とあなた方の文化は違う」

共産党の高官が「血」と「DNA」を持ち出して党の指導を強調するのは異例のことだ。党の歴史はまだ100年にも満たない。政治システムの違いを強調したいのはわかるが、「中華民族の血液とDNA」はどう考えても荒唐無稽な論法である。あたかも排外思想に染まった清朝末期を思わせる時代錯誤の発想だ。文化の発展について言えば、習近平総書記は世界の各地で「開放と包容」をアピールしており、そうした精神とも反する。

集権化に果たした反腐敗キャンペーンの功績は大きい。それを担う調査機関のリーダーとして、鼻息が荒くなり、多少口が滑っただけなのか。どうもそうとは思われない。党中央規律検査委の公式サイトが「DNA」と表記しているので、発言のままなのだろうが、中国語でDNAは基因(ジーイン)という。習近平政権下で、実は多用されているキーワードの一つがこの「基因」なのだ。

習近平氏は毎年、春節前に地方を視察し、強い政治メッセージを発する。昨年は、毛沢東が最初の農村根拠地を建設した江西省西南部の山岳地帯、井岡山を訪れ、「党幹部は紅色基因の教育を受けなければならない」と強調した。「紅色基因(赤いDNA)」とは革命の伝統と言い換えてもいい。緩み切った綱紀をただし、人民に奉仕する初心に帰れと言っているのだ。習近平氏は、腐敗が蔓延している人民解放軍の視察では、さかんに「紅色基因」を繰り返している。政治文化イデオロギー面でも、揺らいだ社会主義の価値観を支えるのは伝統文化の「基因」だと訴える。

習近平氏が「基因」にすがるのはほかでもない。父親は毛沢東らとともに革命から建国までを経た元副首相の習仲勲だ。習近平氏自身が、血統として党支配の歴史的正統性を担う革命世代の二代目、紅二代だからである。家族中心の人間関係を重視する中国人社会において、家柄はことのほか重視される。「父親は・・・」「母親は・・・」と聞くと、中国人はそれだけで格別の敬意を払う。「血液とDNA」が飛び出すのは、こうした政治的、文化的背景があるのだ。

文化大革命初期には行き過ぎた階級闘争の中、革命幹部、革命軍人、革命烈士、労働者、貧農の「紅五類」を優れた出自とし、地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派の出身は「黒五類」として敵視する「血統論」が生まれた。文革に動員された学生組織の紅衛兵は、「親父が英雄であればその子も良く、親父が反動であればその子も馬鹿者」というスローガンを掲げた。多くの紅二代は紅衛兵のリーダーとして、教師や知識人をつるし上げる先頭に立った十字架を背負っている。

「紅色基因」は建党当初の理想、責任、使命を振り返るものであっても、同時に、紅二代に隠された血統論は、封建思想と過剰な階級思想を復活させるリスクと背中合わせでもある。もしその復活の芽が「血液とDNA」発言に現れているとしたら、簡単に見過ごすことはできない。この春節、習近平氏がどこを訪ね、どんなメッセージを発するのか。今秋には2期目を迎える時期だけに、気になるところである。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年1月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。